本屋の爺さんに伝言したバーに着いた頃には、夏だと言うのに既に日は暮れていた。 まだ日が落ちたばかりだと言うのに、店の中には既に出来上がっている者達もいて、店内はほど良い賑わいがある。
カウンターに座ると、軽く手を挙げマスターを呼ぶ。
「マスター、いつもの」
「おお、兄さん。 久しぶりだね」
「まあな。 少し故郷(くに)に帰ってた」
軽口をたたきながら、マスターに差し出されたグラスを受け取る。
ここのバーはがローマに来た時は一度は寄る気に入りのバーで、それが幸いしてか、40代の渋みに磨きがかかったマスターはの顔と彼の気に入りの酒を覚えてくれているのだ。
まあ、マスターがを覚えていたのには理由があるのだが。 というのも ―
「旦那、久しぶりだな! おい、酒持って来い!」
「あら、お兄さん何時こっちに?」
「おお、にいちゃんこっち来て飲めよ!」
「残念、今日は予約ありだ」
初老の老人に、仕事帰りの中年、色気たっぷりの女性、様々な客が、そして店員が彼に声をかける。 彼らに肩を竦めながらも、は楽しそうに言葉を返した。
元々人付き合いのいいなのだが、こうして人に懐かれる性分があるのか、よく彼の周りには人が集まるのだ。 それがマスターが顔を覚えている由縁だった。
短生種であってもこのご時勢にそんな人物はただでさえ珍しいというのに、ましてや彼は長生種。 きっと帝国国内の彼が貴族だと知っている者が今の状態を見たら、非常に驚くだろう。 なぜなら貴族の時の彼は、威厳に溢れつつも、多少人と線を引いているような印象を受けるからだ。
「なんだ、折角今回こそは、お前さんを飲み潰してやるって思ってたんだがな」
カウンターに座っているの隣に、彼と何度も飲み比べたことのある中年の男が酒瓶を抱えて座り込んだ。 既に何杯か飲んでいるらしく、赤くなった顔で男はニタニタと楽しそうにを挑発するように笑う。
男の顔を見返したは、一つため息を吐く。
この男は初めてこの店に来た時に酒に酔って暴れていたのを、が飲み比べで男が勝ったら酒代を全て払う代わりに、彼が勝ったら今日はもう終いだと言って、飲み比べの勝負をしたのだ。 そしてその勝負で完膚なきまでに相手を飲み潰して以来、自分を気に入ってくれている男だった。
多少酒癖は悪いものの、下町では色々な人に慕われているらしい男は、自分に色んな情報をくれる。 そんな情報提供者の一人である男を無下に断ることも出来ないのもあるのだが、彼自身、この男と飲む事は嫌いではなかった。
だからため息を一つ吐くが、その様子に迷惑そうな影は微塵も見えない。
「待ち合わせをしてる。 まあ、来るかどうかは判らないから、それまでなら ―」
そう言ってはまだ半分以上も残っているグラスを煽ると、楽しそうに口元を歪めて男の前に差し出した。 空になったグラスと氷が、夏と店の熱気に涼しげな音を残す。
「思う存分、相手してやるさ」
彼のいい飲みっぷりに、歓声をあげていた男は差し出されたグラスを見ると、彼もまた楽しそうに口元を歪めた。
「そうこなくっちゃな。さすがだ、旦那」
そう言って男はのグラスの中に、琥珀色の液体を並々と注ぎ始めた。
「…………相変わらずね、」
かけられた声に振り返れば、そこには案の定予想していた相手 ― 昼間カテリーナの連れとしてカフェに現れた女性 ― がそこには立っていた。
店の入り口を潜ってきたを見て、は空いている手を軽く上げると彼女を笑顔で出迎えた。
「久しぶりだな、」
まるで店の人達のように、少しばかり会う機会がなかった知人のように話しかけてくるに、は呆れたように見える。
パンツスタイルで髪を結い上げた彼女は、先ほどカテリーナ越しで再会した時よりもなんだか彼の知る彼女に近い気がした。 彼が彼女に始めて会った時の印象はカテリーナ越しの方が近いのだが、きっと一緒に居た人物の印象に引きずられていたのだろう。
そんな軽いノリで出迎えたの所まで、は呆れたように歩み寄ってきた。
「何が『久しぶり』よ。さっきは会って、本当にびっくりしたんだから。いつからこんなドッキリ仕掛けるのが得意になったのかしら?」
「さあ、それは俺に限ったことじゃないだろう? そっちこそ何時から神職なんてものに鞍替えしたんだ」
は彼女が同伴していたカテリーナの身分を知っている。 彼女こそ、このローマでも有数の高位聖職者 ― 国務聖省長官 カテリーナ・スフォルツァ、ミラノ公枢機卿猊下。
そんな彼女に付き従っている彼女が、国務聖省内でも数少ない精鋭 派遣執行官“フローリスト”だと言うこともこのバーに来るまでの空き時間で調べ上げたのだ。
派遣執行官の人数、コードはある程度把握していたのだが、まさかその中に昔、自分達と同じ“帝国”に居た人物がいる事には正直驚いたし、長生種と相反する組織にいる彼女と接触をするのは躊躇われた。
きっと普段のであれば、彼女がこのバーに来たのを確認してからこの場に現れて、大した会話もせずに席を離れたかもしれない。 けれど今回はそうしなかった。
それは 彼女と共有する知人、 の恋人だったレンが、彼女を信頼していたからだった。
「それはこっちの台詞。いつから“外”に? 上司とはどういう関係なの?」
「質問が多いな」
先ほどの男との飲み比べが珍しく効いたのか、自分でも判るほどに機嫌がいいらしい。 喉で低く笑った自分の声を聞きながら、それもたまにはいいか、とは心の中で静かに笑う。
その笑みをどう取ったのか判らないが、彼の周りに陣取っていた人々が解散しだしたと言うのに、まだ先ほどの男が席で潰れているので座れないは若干呆れているようにも見える。
「多くちゃいけないかしら?」
「いや、アンタらしいと思っただけだ。」
口ではそうは言いつつも、はの変りように少しばかり意外さを感じていた。 彼が始めて彼女と出会った時は、もっと静かで、無口で、表情の起伏は少ない印象だったのだが、こうして久々に会った彼女はその印象を払拭するくらいに明るい感じになっていたのだ。
まあ、誰にだって性格が多少変る転機くらい、年を重ねれば嫌と言うほどにあるだろう。 かく言う自分だってそうだったし、今思えば当時の自分を掘り返されてもいい思い出はないから、敢えて触れてやることはしなかった。
ふとは彼女に会う前に収集した情報の中から、その原因の一つであろう人物のことを思い出すと、なるほど、と一人で納得つつグラスを傾けた。
「で、『いつから“外”に?』だったか。 そうだな……“ソール”としては、もう何年も前からだな」
が“ソール”と名乗って情報屋を始めたのは、もう10年以上前になる。 けれど有名になり始めたのはそれから数年後。
その間は地固めが主で、にも言えない様な事をしていた時期だ。 だからその辺には特に触れられたくなかったので、敢えて計算の中には入れずに答える。
「それは、陛下からの命で?」
の口から出た言葉に、は一瞬彼女に気付かれないくらいに反応する。 それを無理に取り繕って意外そうな顔をして見せるが、あまりにも咄嗟なことだったので表情を作るのに失敗したかもしれないと、は心の中で自分に呆れてしまう。
「なんでそこで『あの人』が出てくる?」
「そう思っただけよ。気に障ったなら、無視してくれて結構よ」
案の定は彼の表情の変化に気がついたらしく、直ぐにその話題を打ち切って、いつの間にか席が空いている、先ほどまで酔いつぶれていた男が座っていた席に座る。
マスターからウィスキーを受け取るの姿を横目で見たは、先ほどの言葉が、自分が帝国貴族だと知っているからこそ出た言葉らしいと判断すると、少しだけ肩の力を抜く。
レンが信じた相手だからこうして話をしようと思ったのだろう、と自分に言い聞かせると、少しばかり顔を覗いていた“ソール”としての自分が成りを潜めた気がする。
それを完全に落ち着けるために、は少しばかり楽しげに、自分も新しい酒を注文した。
「お前が知らないだけで、俺は昔っからこうだ」
「知ってる。……で、上司とはどうやって?」
「そうだな。……普通に“もの”を売る売人と、“もの”を買う客として利害が一致した、とでも言おうか」
情報屋から情報を買おうとするなんて、それが普通であると言うのには敢えてそれを口にした。 それを分かっているから、も少しばかり訝しそうな顔をする。
「何だか、意味心な回答ね」
「あのなぁ、一応こっちだって商人なんだ。 客のプライバシーくらいは護るのが普通だろう」
「一応私、上司の護衛係も兼ねてるのよ。知っておいて当然だと思わなくて?」
正直にはの言い分には賛同し兼ねる部分もある。 護衛役であるのであれば、尚更それを知る権利と言うものは曖昧になる。
誰に言われてがカテリーナの護衛をしているのかまではも分からない。 最初は派遣執行官だから、上司であるカテリーナの身を護っているのかと思ったのだが、彼女の言い回しからしてそれは違う事が分かった。
だとすれば、カテリーナの近辺の人物から、個人的に彼女を守れと言われているのだろう。
そこまで考察したは、僅かに残っていたグラスの中身を軽く飲み干すと、わざと軽く音を立てての見える位置にグラスを置いてわざとらしく笑った。
「そうだな。それも一理あるか。」
まるで彼の言葉に呼応するように、グラスの中の氷が音を立てた。
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