あれはまだ“剣の館”に本格的な夏が訪れる前。
派遣執行官に与えられた執務室で事務処理をしていたは、長時間机に向かっていた疲れを解すために、執務室の長椅子でファイルの整理をしていたの真向かいに移動する。
長椅子に備え付けられていたローテーブルの上にあるまだ湯気のたったティーポットから、は持参したマグカップにその香しい匂いをした液体を注いでいると、が広げていた書類の一部が視界に入った。
「ねえ、この“フローリスト”って誰?」
がテーブルに広げていたファイルの中身は、任務に派遣された派遣執行官がカテリーナに提出する報告書だった。
その中に一枚、丁寧な、けれども見慣れない字で書かれた報告書が目に付いたのだ。
その報告者の欄には ― “フローリスト” と聞きなれないコードが書かれている。
空いてしまっていたカップにも紅茶を注ぎながら不思議そうにその字を見ているに、は意外そうな顔をして紅茶を注ぐために中腰の妹を見上げた。
「あら? は会った事が無かったかしら」
「たぶん。……だって、まだ“ブラックウィドウ”や、“ジプシークイーン”も直接面識はないから、この人とも直接会ったことは無いはず」
自分の分の紅茶に口をつけながら、虚空を見つめて思い出してみるが、記憶が飛んでいない限りそんなコードネームの派遣執行官とは面識はないはずだ。
調査部の時であればいざ知らず、派遣執行官は基本的に一任務一人。
例外として派遣執行官になったばかりのは、アベルやトレスなどと共に任務に出ることもあるのだが、それもあまり数のあることではない。
たった十数人のAxのメンバーなのだが、割り当てられるのを待っている任務の数はその数倍もあり、こうしてコードネームは知れど、顔を合わせたことがないのもままあることだった。
乾いた紙が擦れる音がして報告書をファイリングしていたがファイルを置くと、新しい紅茶が注がれたティーカップを手にする。
会話に興が乗ったのか、話しの方に集中してくれるようだ。
「そうね。……貴女も彼女達も何かと長期間外に出る任務が多いから、会う機会の方が珍しいのかもしれないわね」
「それで、この“フローリスト”って人の事なんだけど……」
興味津々と言わんばかりの表情で自分を見上げてくるに、はつい呆れたように苦笑を零した。
仲間と居る時は、出来るだけ彼らに追いつこうと背伸びしているように見える彼女だが、こうやって姉妹二人の時はたまに幼い仕草を見せる時があって、今がまさにその状況だった。
けれど派遣執行官たちのスケジュールを把握しているは、“フローリスト”と呼ばれる派遣執行官のスケジュールを思い出すと、残念そうに眉を下げた。
「生憎、彼女も今ちょうど任務中よ。残念だったわね」
の言葉に、ほんの少し前のめりになって話を聞いていたは、まるで犬であれば耳を垂れ下げてしまったかのようにしょんぼりとしてしまう。
けれど気になった箇所があったらしく、再び顔を上げると少しだけ首を傾げて見せた。
「そうなんだ……。女の人?」
の言う『彼女』と言う単語から性別を読み取ったらしい。
少しだけ得られた情報に意外そうな妹を見下ろして、彼女にしては珍しく少しだけ表情を柔らかくした。
「そうよ。シスター・・、ナイトロード神父に聞けば、詳しいことは教えてくれるわよ」
ティーカップを置いて再び作業を再開させ始めたを見ながら、はその口から出た人物の居場所を思い出す。
そして諦めたようにため息をついた。
「そのアベルも任務中……これは今回は諦めろって言う主の啓示かな……?」
アベルが数日前から任務でローマに不在な事は、彼が任務に出かける時に見送ったので知っていたのだが、何時帰ってくるかを聞いていなかった事を今更ながらに悔やんでしまう。
お互い多忙な身で、自分がこうしてローマに居るのも久々な事なので、今度会えるのは何時になるのか分からないからだ。
がっかりしたように肩を落としてしまったを見ながら、はその落ち込みように彼女には悪いとは思いながらも緩やかに口元に笑みを作った。
「安心なさい、いずれ会えるわよ」
そう言った彼女の瞳が、ほんの少しだけ悲しそうに細められたのを、再び報告書の名前に視線を落としたは気がつかなかった。
ブルノのあの悲しい出来事があって数週間、任務でローマを数日離れていたは久々に“剣の館”の門を潜った。
そろそろ冬も間近となり、肌寒い季節になろうとしていたところだった。
仄暗く厚い雲のかかった天を見上げれば、一面の灰色が自分を飲み込むように広がっている。
あのブルノ蜂起から数週間 ― 自分はまだどうにか大丈夫。
あれから多少夢にうなされる事はあるけれど、あれ以来、もういない人の幻影を“視る”事はなかった。
悲しみは少し和らいだけれど、大事な思い出と後悔が薄らぐことはない。
「ヴァーツラフ父様、……今の私は、貴方との約束を果たせていますか……?」
天を見上げたまま呟く。
返事が返ってこないことなんて十分に分かりきっていたことなのだが、それでも呟かずにはいられなかった。
“剣の館” ― “魔女”の力を持ち、前回の事件の原因の一つとなった自分を、それでもここにいる人たちは受け入れてくれたのだ。
その人達に、彼らを大事に思っていたヴァーツラフ父様の為に、自分は“人”を護り、ここを去ったを連れ戻そうと決めた。
今回の任務は教皇庁領内だったので、大した情報を得られなかったのだが、それでも唯一の家族であるにこそこの場所に戻ってきて欲しい。
それが 彼女にとって、自分にとって、この場にいる皆にとって辛いかもしれないくても、
それでも、はにはこの優しい場所が必要なのだと思っているから。
視線を元に戻して、“剣の館”の大きな扉を開く。
長い廊下を歩いて行くと、ちょうど目的地の半分くらいの場所で見慣れた人物と鉢合わせた。
「おや、さんじゃないですか」
驚いたようにを見下ろす青年は、銀髪が黒い僧服に映える神父、派遣執行官“クルースニク”、アベル・ナイトロードだった。
先ほどまでの憂いた気分を一気に押し込めると、は嬉しそうに彼に向かって笑顔を向ける。
その笑顔を見下ろしたアベルは、彼女につられたように微笑んでくれた。
「ただいま、アベル。」
「お帰りなさい。さんは外任務だったんですね」
別に示し合わせたわけではなく、二人で廊下を歩き出す。
アベルとの身長差は大きいので、自然と歩調もアベルの方が速くなってしまうのだが、自然と歩調を緩めてくれたアベルの心遣いには心の中で感謝の言葉を述べた。
「うん、ガルダ湖の方に二・三日調査に行ってたの」
「そうだったんですね、お疲れ様です。 これからカテリーナさんの所に?」
「ううん、先に報告書とかを作らないといけないから、執務室に。
カテリーナ様の所は、報告書と調査結果書を仕上げてから行くつもり」
の言葉に、アベルは「相変らずお仕事熱心ですねぇ」と感心の言葉を零す。
その言葉に他意等はないのだろうが、は彼の言葉に苦笑を返すことしかできなかった。
元々自身、トレスと比較されるほどに仕事熱心だと言われたことはあるのだが、ここ数日はそれに輪をかけた状態だった。
別に仕事が出来ないからと言って、切り離されることはないかもしれないが、今はそんな少しでも不安な要因を取り除いておきたいのだ。
必要にされたいとまで我侭な事は言えなくとも、不必要だとは思われたくない。
いらないと思われれば、自分はAx(ここ)にいる理由がなくなってしまう、そんな不安がを仕事に突き動かしていた。
それをアベルも薄々と勘付いているのだろう、けれどそれ以上深い言及をしようとはせずに、ただ少しだけ困ったように苦笑するだけ。
「あまり無理はされないでくださいね。私も、皆さんも心配しますよ」
気がつけばそこは国務聖省長官執務室の目の前。
どうやら彼はそこに用事があるらしく足を止めてしまったので、もその場に少しだけ足を止めて返事を返す。
「そうだね、気をつける。 じゃあ、アベルまた後で」
「ええ、ではまた。 ― アベル・ナイトロード。ただ今帰還いたしました」
アベルがノックをしたと同時に歩き出そうとしたのだが、ふと足を止める。
こんなことになってしまってすっかり忘れていたのだが、彼に聞きたいことがあったのだ。
それはまだ、自分の手の届く位置に大事な家族が居た時の事 ― が彼に聞いたら分かると言っていた事柄だ。
思い出せば気に掛かってしまって、まだ部屋の前に立ってドアノブにちょうど手をかけようとしていた彼に向かって、慌てて声をかけた。
「あ、アベル、カテリーナ様に報告した後、時間取れ ―」
振り返ったその瞬間アベルが開いた扉の奥から、の耳に聞きなれた、でも今は安易に口には出来ない名前が聞こえてきた。
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