痛いほど自分を責め続けるを、ずっと静かに、ただ見つめていただけのが、席から一望できる中庭へと視線を向けつつゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「……ヴァーツラフは私にとって、大事な存在だった」
彼女の口から出た名前の意外さに、はゆっくりと顔を上げる。
「……師匠が、ですか……?」
の言葉が急に話題が変わったように見えたので戸惑うが、きっとそれがあながち話題から反れていないのだろうと思うと、それ以上言葉を挟まない。
ヴァーツラフの生徒としてが彼を師と仰ぎ始めたのは、ほんの数年前。
確かに彼の生徒となってからは、彼がローマにいる時は大抵彼の近くにいたものだが、それでもと対面したのは今日が始めて。
だとすれば、彼女が語った『存在だった』と言う言葉は、の知らないもっと過去の事を言っているのだろう。
「スフォルツァ猊下にお会いする前から、彼と私は知り合いだった。どんなことがあっても、彼は優しく、温かく見守ってくれた」
中庭を見つめるの視線は、まるでそこにヴァーツラフとの想い出があるように、ほんの少しばかりの温かさと、悲しさを映し出している。
その表情を見て、はただ申し訳なくて、辛そうに表情を歪めた。
「……そう、だったんですね。」
「Axに入ってからも、彼は何かと私を助けてくれた。見守ってくれた。いつしか私は、彼を尊敬の眼差しで見つめるようになっていった。彼は、彼だけは守りたいと……、本気で思ったことがあった」
彼女の気持ちは、きっとまったく一緒ではないが、分かる気がした。
それほどにヴァーツラフその人は人に分け隔てなく、優しくて、温かかった。
でも その人は もういない
その彼をこの世から奪ったのは ― 自分だ
「だから……、だから彼を、彼をこんな目に合わせたヤツを許さない。この結果が彼の意志だとしても、私は許さない」
の静かな、けれど激しい怒りに、は何も言えない。
けれどその怒りの矛先が向けられている相手が自分ではないことに、は自分が怨まれる以上の悲しみを覚える。
「……さんが ― 」
だからだろうか 涙の代わりに、心から知らずに言葉が零れた。
「そう思うのは、仕方がないと思います。」
自分は 彼女を責める権利など 彼女に言い訳をする権利など 彼女を慰める権利など
最初(はな)から持ちはしない ― けれど
「それだけのことを“騎士団”はしましたし、彼らの元に行ったの事を、……怨むのも、仕方ないことだと思います。 でも、だからと言って、私は、さんにを……責めたりは、しないで欲しいんです」
それだけは 分かって欲しかった 彼女に伝えておきたかった
何を言っているのだと罵られても これだけは言葉として 想いとして目の前の人に伝えておきたかった
「確かにはAxを離反して、“騎士団”に寝返りました。 師匠は、新教皇庁の元へ行かれました。
師匠の離反を手伝ったのはだったと、“騎士団”だったと思うのも自然だと思います。」
それはきっとこの事件の概要を聞いた者であれば、誰もがそう思うかもしれない。
確かに最初は自分だってそう疑った。
けれど、には ― この事件の真実を知る、被害者である彼女には、その奥にある本当の真実を知っていて欲しかった
「けれど、は……師匠を……ハヴェル師匠を好んで連れて行ったわけじゃないんです!」
誰もがそう思うけれど、でも、彼女はそんな事をする人じゃない事は、Axの皆には分かっていて欲しかった。
どんなに辛くても、どんなに苦しくても、彼女は自分の辛さを他の人に持たせるような そんな人ではなかった。
出来ればその辛さを、苦しさを自分に分けて欲しいのだと、どれだけ思っただろう。
けれど、彼女は一度たりとてそれを自分やヴァーツラフ、他の皆に零した事はない。
そんな彼女が どうしてヴァーツラフを連れて行こうとするだろう
ならば彼女が 何故そんな事をしたのか ― そんなのは簡単な仕掛けだった
イザークの言う『約束』の等価が、ヴァーツラフと自分だったとすれば 全ての歯車は噛み合う。
カテリーナにすら言った事がないこの推測は、けれどきっと事実に限りなく近いはずだ。
でも、だからはこの事を誰にも言えない。
このことは ― ヴァーツラフを慕うからこそ、認めたくない
「ハヴェル師匠も……私が関わらなければ……」
少なくとも こんな悲しい結果は なかったのではないか
そう思っても、その言葉は音にすら、吐き出される空気にすらならなかった。
“魔女”である自分を、初めて抱き上げてくれて、自分の罪を知りながら、それでも普通の子供として扱ってくれた人の一人で
自分を 娘だと 言ってくれた 優しい人
の事は大事だ。 でも、それでもはヴァーツラフの差し伸べてくれた手を、離せない。
彼を師と仰ぎ、父と呼んだこの気持ちを、自分は手放せないでいる。
だからはそれ以上の言葉が紡げなかった。
言葉にすれば、 自分は彼との関係を絶たなければいけない。
それが罪を課せられた自分が、彼に対する贖いの一つになるかもしれないから。
だというのに、そう出来ない。そうしたくないのは
彼とも出会わなければ無かった、今の自分が無かったという事を 認めたくないからだ
それ以上の言葉を紡げず、黙り込んでしまったを見て、は冷ややかな瞳で見下ろす。
けれどその視線すら、には当然に思えた。
「……確かに、あなたが関わらなかったら、こんなことにはならなかったでしょうね
」
辛辣だが、紛れもない事実が胸を裂く。
自分では言えない事を言われて、心が悲鳴を上げるけれど、それすらも甘んじて受けなければならない。
彼女は、自分の代わりにその罪を言葉にしてくれたのだから。
「……そう、ですね。だから、は……完全にとは言いませんが、悪くは無いんです。」
をそんな行動に走らせたのは 彼女を止められなかったのは
「悪いのは、“騎士団”に抵抗する術も持たなかったのに、Axに……
いえ、と、ハヴェル師匠の優しさに甘えて、何もしなかった」
ハヴェルを追い詰めたのは 助けられなかったのは
全て ―
「私の所為なんです」
これは ここに残された 自分の罪だ
苦しげに、けれどはっきりと己の罪を口にしたは、己の罪の重圧に耐え切れず、視線を俯かせてしまっていた。
そんな彼女を見下ろしていたは、何の表情も無く、何の感慨も無く、ただ静かに口を開く。
「……確かに、今回のことはあなたのせいかもしれない。でも、もしそうなら、あなたに後悔している時間なんてないはずよ」
「……はい。」
の正論に、はただ頷くことしか出来ない。
彼女の正しい言葉は、音のない世界で氷を叩くかのように、静かに、けれど確かに響く。
だからこそ、その音に自身が挫けないように、は目を伏せて、深く頭を下げた。
「でも、だから、カテリーナ様や、アベル、それから、さん達にも、を……許して欲しいなんて言いません。
けれど……怨まないで、欲しいんです。怨む原因は……私にあるのですから」
深く下げられた頭に、しばらく周囲の声が消える。
ただ聞こえるのは、風が揺らした葉達が囁く音。
その音達が静まる頃合に、やっと沈黙が破られる。
「変な勘違いをしているわね」
「……勘違い?」
ため息混じりに呟かれた声に、は彼女の言いたいことが図れなくて、顔を上げて彼女の表情を見返した。
その表情は、今までの感情を凍てつかせたようなものではなく、ほんの少しだけ呆れのようなものが見えるのは、自分の目の錯覚ではないはずだ。
「私はあなたを怨んでなどいない。私に怨む理由など、ないもの」
「でも、の事は……」
の真意が分からず戸惑うに、は相変らず静かな表情なのだが、先ほどまでとは別人ではないかと思わせるほどに静かだが穏やかな声で言葉を続ける。
「ええ、怨んでいるわ。次に会った時には、絶対に許さないと思う。だから……
……だから私を、全力で止めてみなさい」
彼女の言葉に 耳を疑う。
目の前に居る女性は 裏切り者だと怨んでいたのではなかったのか。
感情と裏腹の赦し ― いや、許容の言葉に、彼女の優しさが見えたような気がした。
彼女を 自分を許してくれるのではないかと希望さえ見えた。
だからほんの少しだけ穏やかな表情を見せたの言葉と表情に、ただ、は泣きたくなる。
けれど、ここで泣くのも相手を困らせるだけだから、涙を押し殺すように、瞳を伏せると再び頭を下げた。
「さん…………ありがとう、ございます……」
「私は別に、お礼を言われるようなことは言ってないわよ」
「いえ……その言葉だけでも十分です。
……分かりました。私、頑張ってを連れ帰ります。 それで、さんも、止めて……みせます」
顔を上げれば、まだ涙は零れそうだったか、それでもここに来て初めては笑顔を零した。
彼女の心の傷は、きっとでは計り知れないほどに大きいのだろう。
けれども、彼女はそれでもの事を考えてくれていた。
それだけで 今は十分すぎるほどだ
「期待しているわよ……、」
「はい」
の笑顔につられ、は頷いて、今度こそいつもの通りに微笑んだ。
その頃には曇り空も少しだけ雲が薄れ、ほんの少しばかり太陽の光が雲の切れ間から降ってくる。
降りてきた光を眩しそうに見つめたが立ち上がると、に柔らかな微笑を向けた。
「紅茶が冷めてしまったわね。新しいのを淹れてくるわ。よかったら、手伝ってくれる?」
優しげな笑顔を見て、心の中に蟠っていた様々な感情が陰を潜めるのが分かる。
その様子に、は“フローリスト”と呼ばれる職業を思い出す。
自身が思い出したその言葉が、彼女のコードの意味と同じかどうかは分からないが、それでもその言葉は彼女のその微笑に合っているのではないかと思った。
「私でよろしかったら。 ……さん……改めて、よろしくお願いします」
右手に笑顔を沿えて差し出したを、は少し驚いたようなのだが、直ぐに彼女も笑顔になると、その手に自身の手を重ねてくれた。
「こちらこそ、よろしく、」
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