[ナノマシン“クルースニク02” 40パーセント限定起動――承認!]
飛来する無数の氷片は、確かにアベルの姿を捕えていたはずだった。
しかし大きなダメージを与えられることも出来ず、虚しく壁や床に突き刺さっただけだった。
「どこにおる、ナイトロード……!」
“氷の魔女”ヘルガ・フォン・フォーデルワイデが獲物を探し出すかのごとく周りを見回そうとしたが、
何かが自分の体から離れていく感触が襲い掛かって、動きが止まってしまった。
「くはっ!」
小杖を握っていた右腕と左膝を切断され、その場に立っていられなくなり、
大量の血を流してその場に倒れる。
その足元には、先ほどまで自分が追い込んでいたはずの銀髪の神父が、
漆黒の大鎌を握り締めて立ち尽くしていた。
その目は赤く光り、立場が逆転したかのように、ヘルガを獲物のように見つめている。
手にしている大鎌が振り上げられ、勢いよく落ちていく。
覚悟を決めたのか、ヘルガは目を瞑り、襲い掛かってくるであろう衝撃に耐えようとした。
しかし――。
「……何!?」
鼓膜を突き破るかのごとく、地面を突き刺す音が響き渡る。
ゆっくりと目を開ければ、自分の体を突き抜けているはずの大鎌が、
ほんの数ミリというギリギリラインを狙って突き刺さっていたのだ。
ゆっくりと抜かれる大鎌を見つめながら、
ヘルガは予想外の展開に驚きの様子を隠せないかのようにアベルへ言い放つ。
「……何をしておる、ナイトロード! 妾が死を覚悟したとういうのに、何故ここを撃たぬ!?」
「……“人間”を、殺したくないんです」
切断されていない左手で自分の胸元を指して問い掛けるが、
アベルは表情1つ変えず、しかしどこか優しげな顔でヘルガに答える。
「昔、私は約束しました。もう“人間”を殺さないし、死なせないと」
「“人間”じゃと? 怪物扱いしている短生種と同じだというのか!?」
「ええ。あなたは、私達と同じ“人間”です。ですから私は、あなたを――!」
アベルの言葉は、自分の影の異様な動きをし始めたのと同時に止まり、ヘルガの下に広がっていく。
ちょうど、ヘルガの体が丸々入るぐらいまであるようにも見える。
「これは……、……まさか!?」
見覚えのある光景にアベルが気づいた時には、ヘルガの体がどんどんその影に吸い込まれ始めていた。
まるで、大きな沼に沈められているだ。
「よ、よせ、“魔術師”! 妾は、妾は……!」
「『あなたは』、何ですって?」
後ろから聞こえる第三者の声に、アベルは勢いよく振り返ると、そこにはすでに死んだと思われていた男が、
いつもと変わらず細葉巻の白煙を浮かべながら立っていた。
その姿はまるで、目の前で起こっている光景を楽しんでいるかのようにも見える。
「そんな……、どうしてあなたが……!」
「驚いている暇などありませんよ、神父様。早くしなければ、伯爵夫人が影にどんどん飲み込まれてしまいま
す」
冷静に、そして冷酷にも聞こえる声に、アベルは再び視界を戻した。
しかしその時には、すでにヘルガの姿は左手しか見えていなかった。
急いで手を伸ばしても、沼のような影が予想以上に大きく、思ったように手を伸ばすことが出来ない。
その間にも、ヘルガの左手はどんどん下に落ちていく。
「ヘルガさん! ……くそっ、この影さえなければ……!」
これ以上進めば、アベル自身も巻き込まれるのが落ちであるが、それでも何とかして、彼女を救い出したい。
だがそれとは正反対に、ヘルガはどんどん落ちていき、
最後まで残っていた左中指の指先もゆっくりと消えていった。
「どうやら、間に合わなかったようですね、神父様。しかしそのお陰で、無事、我々の目的は達成されました」
再び背後から聞こえる声に、気力なくその場に座り込んでしまったアベルはすぐに反応しようとはしなかった。
ただ黙って、その言葉を聞き入っているだけだった。
「もとから私は、伯爵夫人が企んでいる私の暗殺計画のことは知っておりました。彼女には責任を取ってもらわな
くてはいけないことがありましたから、こちらとしても丁度よかったですががね」
「……責任?」
「ええ。そのタイミングを伺っている時に、伯爵夫人直々にご招待に預かりましてね。これはいい機会だと思って、
彼女の作戦に引っかかる不利をして、逆に横取りすることにしたのです」
少し短くなった細葉巻を吹かしながら、ケンプファーは淡々と言葉を綴っていく。
それはまるで、すべてが予定通りに進んだことに対して満足しているようにも感じられる。
「勿論、この作戦にAxが肝油していることも知っておりました。あなた方のことも、彼女は酷く憎んでらっ
しゃってからね。ですから、伯爵夫人と彼女の補佐をしている者達の抹殺をお任せすることにしたのです。か
なり大回りはしましたが、こうして目的を達成出来て何よりです」
満足げなケンプファーに、アベルの体が小刻みに震えているように見える。
そしてその場からゆっくり立ち上がると、ゆっくりと振り返り、
赤く燃えるような目を相手に向けて鋭く光らせた。
「この“塔”は、もうじきヴィエナ市内に墜落します。こんなに大きなものが落ちるわけですから、きっと市民
達は驚くでしょうね。――いいえ、驚く前に、炎の中に消えてしまうかもしれませんが……」
[ナノマシン……]
今まで黙っていたアベルから毀れた言葉は、ローマの時と同様、血の色と化していた。
そしてその口から、再び呪文のごとく発せられる。
[ナノマシン“クルースニク02” 稼動率上昇80パーセント――]
(待ちなさい、アベル)
しかし、呪文は脳裏に走った声のせいで完成することはなかった。
それはどこか懐かしく、それでいて一番アベルが耳にしたかった声に似ていたからだ。
(待ちなさい、アベル。――起動させるには早すぎる)
再び脳裏に聞こえた瞬間、空に輝く三日月が急に輝き出し、
部屋の中にある天窓に向かって光を中へ注がれて行く。
その光の先に、1本の光の線が縦に引かれ、それを確認すると、月光はゆっくりと弱まり、
何もなかったかのように元へ戻っていった。
「この線は、一体……」
さすがのケンプファーも、未だかつて見たこともなかった現象に驚きを隠せないようでいるが、
どこか楽しげにも見えてしまう。
そしてそんな彼の興味をさらに引くかのように、その線の上から、
8つの点のようなものが浮かび上がり始めた。
――いや、あれは点などではない。確実に人間の指先である。
「誰か、“次元”を渡れる者がいるのか? ……いや、Axにはそのような人物はいなかったはずだが……」
Axには、目の前にいる銀髪の神父のような特殊な力を持つものがいることはよく知っているが、
このような現象を引き起こすことが出来る人物は1人としていないはずである。
最後の最後まで情報を入出出来なかったあのシスターにも、きっとこんなことは出来ないであろう。
「……いや、彼女になら少し可能性はあるか……」
そんなことを呟いている時、8つの指先はそれぞれ4つずつ分かれ、左右に分かれて碑開き始めた。
穴が徐々に大きくなるにつれて、その効果を齎せている人物が姿を現し、
その場にいる2人の男達の目に飛び込んで来る。
その光景に、アベルは言葉を失ったかのように目を見開き、
ケンプファーは予想が的中したかのようにかすかに微笑んでいた。
「やはり、あなたでしたか、……シスター・」
“アイアンメイデン”の自爆から6時間後、
教皇庁国務製省特務分室派遣執行官“フローリスト”は、無事合流を果たしたのだった。
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