太陽が、まるで町の中へ身を隠すかのように沈んでいく。
 それを見ながら、アベルは先ほどから、同じことばかりを考えていた。
 いや、もう考え始めて、かれこれ2日が経過しようとしていた。



 あの時、ケンプファーの発した言葉は、確かに聞覚えのある言葉だった。
 そしてそのことを知っている人物は、アベルと、そしてアベルの妹との「最愛な人」しかいないはずだ。
 それなのに、ケンプファーはまるで何もかも知っているかのごとく、
 そしてあの時と同じような口調で彼らに言い放ったのだ。




『とっても幸せだよ、僕は……、この世界に生まれることが出来て』




「……まだ、悩んでいるのね、アベル」




 突然かけられた声に、アベルは勢いよく振り返ると、
 ベルヴェデーレ宮殿にいるはずのが、2つのコップを握って立っていた。
 居場所を伝えていなかったのに見つけ出すことが出来たのは、やはり彼女だからこそ可能だったのかもしれない。




「この分だと、無理言って滞在許可を貰って正解だったかもしれないわね。――はい、これ」




 手渡されたコップの中身は、温かなミルクティだった。
 とは言え、いつも通り砂糖13杯も入っているのだから、ゲル状にはなってしまっているのだが、
 それでもそこから漂う香ばしい香りは、アベルの心に安らぎを与えようとしていた。




「……さんは、知っていたのですか?」

「何となく、ね……」

「もしよかったら、いつから知っているのか、教えていただけませんか?」

「ヴェネツィアで……、あなたがアストと一緒にエンドレを捕えに向かっている時、だったかしら。その時、
イザーク・フェルナルド・フォン・ケンプファーがトレスの情報が取り出せて、私の情報だけが取り出せなかった
と聞いて、もしかしてと思ってね」

「そうでしたか……」




 夕日をバックに設置されているベンチに腰を下ろすと、アベルが自然と、それに続いて横に腰掛ける。
 ミルクティを口に含ませ、まるでアベルを説得させるかのように、はゆっくりと話し始めた。




「あの時の私は、『あいつ』との再会に怯えていた。あの時点で再会すれば、私に訪れるのは、完璧なる『死』しか、存在していなかったから」




 当時のは、まだ不完全なままだった。
 「力」も制御され、プログラム達ともすぐに連絡が取れず、何度も苦しんだことがあった。
 その時点で、“
薔薇十字騎士団(ローゼンクロイツ・オルデン)”の主格だと思われる人物に会ったら、
 自分は確実に敗北し、横にいるアベルを奪われてしまっていたことであろう。
 だからこそ、彼女は「あいつ」に関わる全ての人物に、口封じとも言える呪詛をかけたのだ。
 どうやって取り付けたのかは言えないのだが、の「父」と呼ばれる者が誰よりも早く察知し、
 彼女の変わりに設置した可能性が高いと思われている。




「アベルを守るために、私はここに存在し、ここに生きている。だから、『あいつ』に負けるわけにはいかなかった。
あいつにアベルを奪われたくなかった。だから……、私は自分が確実に生きられる方法を選んだの」

「力を解放させた理由は、あのままにしておいたら、あなたも私も傷つくからということ以外に、『あいつ』に対抗
するためでもあった、ということですね」

「そういうこと」




 夕日の日差しに照らされた影が、ゆっくりともう1つの影へと移動する。
 左肩に頭を乗せたの髪をそっと撫でながら、アベルは彼女がいなかった空白の時間に耳を傾けた。




「ステイジアに助けられた後、私は必死になって戦った。はっきり言って苦しかった。それこそ、息が出来なくなる
ぐらいにね。けどアベルを守るためなら、これぐらい平気だと思った。アベルの大切な人達を守るためには、こんな
ところでへばってはいけないって、そう思った」




 「力」を取り戻すことは、封印することよりも楽ではあった。
 しかしそれは逆に、完全に飲み込まる可能性も高いことにもなるため、
 それを防ぐために必要以上に体力を消耗してしまいそうになった。
 それでもはアベルのために、そして彼の大事にしている人達のために、
 見えるようで見えない相手と戦い続けたのだ。




「私が“塔”に飛び降りようとした時、突風に流れそうになったのを助けたのは、さんですね?」

「あの時は、復帰しようと準備している最中だったから、焦ったわよ」




 本当は、“アイアンメイデンU”に突然姿を現して驚かすことも考えたのだが、
 そうする前に、アベルがあまりにも無謀な手段に出たため、ほんの数秒だけ狭間から抜け出し、
 少々手荒い手段だったが、彼を目的地に運び込んだのだ。
 そのお陰で、アベルは無事に目標地点に到着することが出来た、ということになる。




「ピアス、重くないですか?」

「久しぶりだから、ちょっと重いかも。ファーストピアスには向いていないのは事実ね」

「『力』を封印したのと同時に、これも封印していましたからね。頭痛は起こっていませんか?」

「全然。逆に、気分がいいぐらいよ」




 「力」を取り戻したことにより、は昔の姿に戻りつつあるため、
 以前より身動きが取れやすくなったのは言うまでもない。
 そして取り戻したことにより、生まれた頃から肩身はなさず持っていたこの黒十字のピアスを、
 再びつけることが出来るようになった。




「これでもう発作も起こらないし、変に苦しむ心配もなくなったから、何だかとてもスッキリしたわ。それに……、
今の私は、もう何も怖くないし」




 その場にゆっくり立ち上がり、ゆっくりと振り返る。
 夕日が半分近く沈み、かすかにだが月が姿を現している。




「何があろうと、私はアベルを、そして人間を守り抜かなくてはなら。だから私は……、『あいつ』と戦うことを決
めたの」

「……呪詛を解く、ということですか? そうなると、あなたに襲い掛かってくる危険性は高くなりますよ?」

「覚悟の上よ。――ま、『彼』が許可してくれれば、の話だけどね」




 横から見るの顔が、とても逞しく見える。
 それは逆に、彼女を辛い展開に押し上げてしまっている罪悪感にも駆り立てられ、
 アベルはその場から立ち上がり、勢いよく彼女を抱きしめた。




「ア、ベル……?」




 突然の出来事に、が少し困惑したようにアベルの名前を呼んだ。
 しかし相手は何も言わず、ただ強く、彼女を抱きしめるだけだった。




「……ごめん」




 耳元で囁いた声は、どこか苦しそうで、思わず胸が締め付けられそうになる。




「ごめん、……。本当に、ごめん……」

「……謝ることなんてないのよ、アベル」




 アベルの心を慰めるかのように、は彼の胸元で優しく囁き、そして不安そうな顔をしている彼の頬を包み込む。
 その目はまるで、本物の「天使」のように光り輝いていた。




「アベルが謝ることなんてない。だってこれは、私が望んだことなのだから。だからそんなに、辛い顔しなくてもい
いのよ」

「しかし、もし俺があの時、彼女を……」

「前にも言ったでしょ? それは、あなた1人だけの責任じゃないって。すべてを目撃しておきながら、何も出来な
かった私も同罪だって」

……」

「彼女の意思は私の意思であり、そしてあなたの意思も私の意思なの。だから、あなたの願いを叶えるために、そし
てあなたの大切にしている人達を守るために、私は共に戦い続けるって誓ったんだもの」




 そっと頬に唇をあて、さっきとは逆に、今度はがアベルを強く抱きしめる。
 身長差があるとは言えど、他の尼僧よりも少しだけ背が高いので、苦になることく行動に移すことが出来た。
 だが、抱きしめていたのはほんの数分で終わってしまい、
 すぐにアベルがの顔を覗き込むかのように見つめられ、体が自然と離れてしまった。




「……さんのおっしゃっていることは間違っています」

「えっ?」

「私が守りたい人達を守ると言いましたが、さんを慕っている人達はどうなるんですか? ゲルマニクス国王陛下、
遠く離れた場所におられる『あの方』やAxのメンバー、そしてカテリーナさんはあなたの守りたい人達じゃないの
ですか?」




 アベルの言っていることは、確かに正しかった。
 それにこの数日で、は自分の周囲にいる人達がどんなに自分を必要とし、
 大切にしているかを身をもって実感していた。
 しかし、彼女の中ではまだ何かが引っかかっているようで、
 今回もまた、遠まわしにアベルへ伝えようとしてしまう。




「アベルにとっても、Axメンバーやカテリーナは大事な人達で、守りたい人でしょ?」

「それは正しいです。しかし……」

「ルードヴィッヒも『あの人』も、アベルにとっては守りたい人に入るでしょ?」

「そりゃ私は、“人間”を守ると誓いましたから」

「そう考えると、結局、私とアベルが守りたい人達って同じなの。だから、アベルが守りたい人達は必然的に、私が
守りたい人達だって言い切っても、おかしくないんじゃなくて?」

「おっしゃっていることは分かります。ですが、それとこれとはまた別……」




 まだ発言が終わっていなかったが、によってそれが阻止されてしまう。
 それによって、数分後に解放された時には、もうそんなこと、どうでもよくなってしまっていた。




「……負けましたよ、さん。降参ですよ」

「私に勝とうだなんて思う方がいけないのよ、アベル」




 満足げな顔を向けられてしまったら、降参せざるを得なくなる。
 アベルは呆れたようにため息を溢し、再びを強く抱きしめ、そして髪をそっと撫で下ろした。



 が認めたくないということぐらい、アベルは当の昔から知っていた。
 だからこそ、ちゃんと自覚して欲しいと願っているのだが、何やかんや言っては、いつもはぐらかされてしまう。
 こんなやり取りを、今まで何回繰り返しただろうか。
 一時期数えていたことがあったが、今ではあまりにも多すぎてやめてしまっていた。




「もう1人で……、勝手に消えるのだけはやめて下さいね」

「その台詞、そっくりそのままお返しするわ、アベル」

「勿論ですよ。私ももう、あんなに苦しい想いをさせるのはこりごりですから」

「分かればよろしい」




 少しだけ離れて、目と目が重なり合う。
 そっと微笑めば、アベルも自然と微笑み、お互いの距離が徐々に縮まっていく。



 ゆっくりと深くなり、息が苦しくなると角度を変え、それと同時に力が抜けていく。
 それを支えるかのようにアベルが強く抱きしめると、もまた、彼の背中に両腕を回し、
 しっかりとしがみついた。




さん」

「ん?」

「私は心の底から……、ずっと私はあなたのこと、愛していますよ」

「冗談だと思うけど……、……ありがとう」




 夕日の光に照らされ、2人の心はゆっくりと重なり合い、そして新たなる誓いを交したのだった。

















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