廊下に軽快な靴音が響き渡る。
その音がぴたりと止まり、扉の開く音が変わりに響き出す。
中に入るなり、ケンプファーは主のいない自室に佇む人物の姿を見て、
他人では絶対に見せないような笑みを浮かべる。それはまるで、最愛の人と再会を喜ぶかのようにも見える。
「ここにおいででしたか、我が君」
「戻って来ているって聞いたから、びっくりさせようと思って待っていたんだよ〜。うん、任務ご苦労!」
白い服に身を包んだ男の目は、先日まで交戦していた銀髪の神父と同じ湖色の瞳を持っているが、
髪は鮮やかな金色をしている。
そして、その髪から覗かせる顔は無邪気な子供のように微笑んでいる。
「体、そうとう酷くやられたって聞いたけど、大丈夫かい? 全く、今度会ったら、ちゃんと言いつけておか
ないといけないなあ」
「これぐらいのことは構いません。幾分かよくなってきていますし」
事実、ここまで回復するのには時間がかかった。
今もまだ、後遺症が残っているように、たまに吐き気が襲い掛かってくる。
今までになかったことなだけに、少し不安でもあるが、
逆に以前にも増して好奇心が湧いて来ているのも事実にあった。
「アベルは本当、怒りっぽいからね。ほんのちょっとしたことでも、すぐにカッとなっちゃうから困りものだ
よ。ボクも妹も、取り押さえるのに一苦労だったんだよね〜」
「そのお陰で、私は弟君の力を身をもって体験出来たのですから、それはそれで満足していますよ。――勿論、
弱点も含めて、ですが」
部屋の奥にある扉を開けた先にある階段を下り、目の前にあるスイッチを入れると、
たくさんのボトルが光に照らされながら姿を現す。
そこから1本のボトルを取り出し、満足そうな笑みを溢すと、再び階段を上がり、
ゆっくりと扉を閉じた。
「フランス製のカベルネ・ソーヴィニオンは、渋みを大事にしているワインでしてね。私のコレクションの中
でも、かなり貴重な1本でもあります」
「そんなにいいことがあったのかい? 聞いてみたいなあ」
「そのために、これを持ってきたのですから」
テーブルの上に置かれていたソムリエナイフを取り、手馴れた手つきで包装をはがしていく。
コルクにスクリュー部分を当て、起用に引き抜くと、一旦デカンダーに写して空気に触れさせ、
ゆっくりとグラスに注ぎ込んだ。
「それじゃ、乾杯♪」
「はい」
2つのグラスが重なりあって響くと、ゆっくりと口に運ぶ。
口の中に独特の渋みが広がり、そして爽やかな後味を残していく。
「そう言えば、先ほど送ったものは、ちゃんと届きましたか?」
「もう中にいるよ。最初は抵抗していたけど、一緒になっちゃったら大人しくなったんだ。きっと、居心地が
よかったのかもしれないね。うん、そいつはいいことだ」
掌を開いたり閉じたりしている姿は、まるで体の調子を確かめているようで、
軽く首を左右に動かしてみたりもしている。
そして一度笑みを溢すと、再びワインを喉に通し、満足そうな笑顔を見せた。
「で、いいことって?」
「ええ。実はアベル様が、あるシスターの力を受け取ったことにより、“クルースニク”をより最強にさせる
力を発揮させたのです」
「“02”をかい? そんなの、見たことも聞いたこともないなあ。何かの迷信なんじゃないのかい?」
「私もそう思ったのですが、実際に目撃してしまったので、そういうわけにもいかなくなってしまいましてね」
「ふーん。で、そのシスターの名前、何て言うの?」
主の目は好奇心の塊かのごとく輝いていて、そんな姿を見て、
相手が喜んでいるのを確信したケンプファーも、心なしか嬉しくも感じる。
だがそれとは裏腹に、果たして彼の質問にちゃんと答えられるかという疑問もあり、
彼は大きく息をし、ゆっくりと吐いた。
「名前は……、……シスター・・。教皇庁国務聖省特務分室派遣執行官の1人です」
「……・?」
ちゃんと名前を思い出せたことに安心するケンプファーとは逆に、
白い服に身を包んだ青年は顔を一瞬しかめる。
その様子に疑問を持ったのか、ケンプファーが心配するかのように話し掛けた。
「どうかなされましたか、我が君?」
「ねえ、そのシスターの名前って、本当に・っていうのかい?」
「はい。それが、どうかしましたか?」
「そっか。……、まだ生きていたんだ」
どこか懐かしく言う主を、ケンプファーは不思議そうな顔で見つめていた。
その口調からして、どうやら昔に面識があることは分かったが、
彼はここからあまり外へ出たことがないが故、いつ知り合ったのか、全く検討がつかった。
「シスター・をご存知なのですか?」
「知ってるも何も、彼女はボクの中ではアベル並みに有名人だよ。何せ彼女、ボク達と同じようにして生まれ
た子だからね。……でも、どうしてだろう? いくらボク達と仕組みが同じだからって、彼女の体内には
何もないはずだから、生きているのはおかしすぎるよ」
湖色の目をした青年の顔は、満弁の笑みを浮かべて喜ぶが、それと同時に何か思い当たる節があったのか、
首をかしげながら目の前でワインを掲げる男に問い掛けた。
そしてその疑問に自分の考えをぶつけるように、ケンプファーが口を開こうとしたその時――。
「――っ!」
重い頭痛が、頭を割るかのように響き渡っていく。
それはまるで、最も重要な部分を封印されてしまったかのごとく、ケンプファーの脳内を刺激していった。
「あれー、どうしたんだい? もしかして、まだ完全に治っていないとか?」
「ああ、いえ、心配には及びませんよ、我が君。……あまり認めたくないのですが、そろそろ生活習慣を改善
した方がよくなってきたかもしれませんね」
「あんな生活送ってたら、誰だって崩しちゃうよ。決して、無理はしちゃ駄目だぞ?」
「そうですね。……優しいお心遣い、ありがとうございます」
めったにお礼など述べたことがないケンプファーだが、
この青年の前ではそんなことも素直に言ってしまう自分を、時々不思議に思うことがある。
しかしそれも、彼の笑顔を見てしまえばどうでもいいことへと変わっていった。
「ま、のことだから、きっと彼女の側近達がコントロールしているんだと思うし、そう深く考えることないよ」
「側近? それは一体、どういうことですか?」
「おやあ? その様子だと、知らないみたいだね。分かった、ボクが親切丁寧に教えてあげるよ」
嬉しそうに話し始めた青年の言葉を、ケンプファーは一語一句聞き逃すことなく、
時に相槌を打ちながら耳を傾けていた。
その内容に、一瞬驚きながらも、思わず納得したかのように表情が明るくなっていくのがよく分かる。
「なるほど、“神のプログラム”ですか……。それで彼女は、あんな登場をしたのですね」
「『彼ら』はに忠実な僕だから、たぶんあの“人形遣い”でも、このプログラムに潜入するのは不可能だと思うよ」
「潜入出来たとしても、すぐに消去されて、元に戻れなくなるから、ということですか。……了解しました。
“人形遣い”には、私の方から伝えておきましょう」
謎が解明され、安心したかのようにワイングラスを持ち上げ、中に入っている赤ワインを口の中に注ぐ。
先ほどよりも美味しく感じるのは、はやり不安要素がなくなったからであろうか。
「何か、すごくにも会いたくなって来たな〜。彼女、すごくシャイな子でね、いつも部屋に篭ってばっかい
たんだ。話したのも、ほんの2回ぐらいしかないもん」
「おや、昔はシャイだったのですか? 今は、かなり活発な方のようにお見受けしますが」
「へえー、そうなんだー。そうなると、もっと彼女に会いたくなってきたな〜。ねえ、今度さ、会う機会作っ
てよ! あ、もちろんアベルともね♪」
「了解いたしました、我が君」
ワイングラスを掲げるように了承すると、再び口に運び、そしてゆっくりとテーブルにグラスを置いた。
目の前にいる青年は、が生きていることが嬉しいのか、笑顔のまま赤ワインを喉に通している。
これでようやく、とアベルの接点が見つかった。
全てではないにしろ、今度鉢合わせした時の対応に困ることがなくなったため、
どこかゆったりとした気分になりそうになった。
そして何より、主であるこの青年がこんなに喜んでいることが、
ケンプファーにとっては何よりも嬉しいことである。
「早くアベル様とシスター・――いえ、様と再会出来るといいですね、我が君」
ケンプファーはそう呟くと、空になったワイングラスに新しい赤ワインを注ぎ入れ、
そのグラスをゆっくりと揺らしながら眺めていた。
その色は、まるで血液のように真っ赤に染まっているように見えたのだった。
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