「――銃を下ろしなさい、罰当たりな異端者ども!」
どこからか来たハスキーな声の貴婦人が、2階へと上ってゆく階段の頂上に仁王立ちしている。
その姿を目撃したアベルとアントニオが、声をそろえて彼女を叫んだ。
「「アンハルト伯爵夫人!?」」
彼女はすでに、市民と共にタリンを脱出しているはずだった。
なのに、なぜここに!?
しかも、その手にしているのは、機関銃ではないか!
「機関銃!? どこからそんなものを――」
フリードリッヒが質問するが、それに答えることなく、クリスタの手から一気に機関銃か鳴り始める。
勿論、アベルもアントニオもいる、その中でだ。
「ぬ、ぬわあああああっ!?」
雪を巻き上げて急接近してきた銃幕に、アベルは悲鳴をあげる。
どうにかして、この嵐から脱出しなくては。そう、思っていた時だった。
少し離れた位置で、一瞬次元がずれたように見え、アベルの目が少し見開く。
まさか、彼女がここに来るはずがない。
市民達のもとには新教皇庁の兵士が向かっていると聞いていたし、その場をトレス1人に任せて来るはず――。
「……何で、こんなところに下ろすのよ、ヴォルファー!」
しかしアベルの思考を裏切るかのように、そこから現れた僧衣の尼僧が、
突然目の前で繰り広げられている銃撃に向かって吼えていた。
これは、ある種の夢なのだろうか?
「さん! どうしてここに!?」
「アベル、これ、どうなっているのよ!?」
2人の意見が重なり、お互いに何を聞きたいのかが聞き取れなかった。
その理由の半分が、クリスタが持っている機関銃の音のせいなのだが。
「――とりあえず、逃げるよ、アベル君、君!」
アベルの背後にいたアントニオが小銃を担ぐと、一目散にクリスタのいる階段まで走っていく。
「アベル、ここはとりあえず非難するわよ!」
「あ、はい!」
アントニオの潔いほどの逃げっぷりに一瞬見とれていたアベルをが一括し、
我に返ったアベルが足元の拳銃を救い上げ、あたふたと階段を駆け上る。
クリスタの銃弾は、まだあと少し残っている。
「ク、クリスタさん、あなた、なんでこんなところに!?」
「そうですよ! 市民達の姿の中にいなくて、一瞬焦りましたわ!」
「それが、やはり主人のことが心配になって……」
嘘の理由を言ったに、嘘の答えを述べるクリスタ。
2人の会話の内容が、別の意味で成立していることに気づいているのはだけだ。
アベルも、アントニオも、この2人の間にある言葉を見つけ出すことは出来ないでいる。
「話はあとだヨ、アベル君、君! 生きてここを出られたら、ゆっくり糾弾したまえ!」
階段の下から、混乱から立ち直りつつある兵士に気づいて、アントニオは慌てたように3人へ言う。
こういう時の咄嗟の判断は、さすがというのか、ただ単に逃げ上手というのか。
「こっちですわ。……確か、こっちに昇降機が!」
剣呑な音を上げて飛来した銃弾が、すぐ耳元をかすめ去っていく。
アベルとアントニオは、場所を知らせたクリスタを左右から担ぎ上げんばかりに立ち上がらせると、
と共にクリスタが指差した廊下の奥にある昇降機へ向かってあたふたと走り出した。
何とかそこに滑り込んだ時には、廊下の向うからも新手の靴音がし、アベルが格子戸を閉めて、昇降機を動かした。
「……こ、これからどうするんですの? どうやってここから逃げ出せばいいんですの?」
ようやく恐怖が蘇ったクリスタが声を震わせて言う姿を、は心の中で冷たく見つめていた。
正体が分かった以上、彼女に勝手な行動をしてもらうわけにはいかない。
何せ、彼女は……。
「聞きたいことがあります、さん」
クリスタを見つめていたを、アベルが鋭い口調で責めてくる。
それも当たり前のことだ。
市民に危機が迫っているというのに、トレスと共にいた彼女がアベル達の前に姿を見せたのだから。
「なぜ、あなたはここに来たんですか? 今、新教皇庁の連中が、市民達を捕まえるために――」
「ユーグとレオンが、ローマから来てくれたのよ、アベル」
言葉をさえぎるように答えたに、アベルの顔が、一瞬驚きの表情を見せた。
「それ……、一体、どういう意味ですか?」
「昨晩、アベルとトレスが町の様子を見に行っている間に、“教授”に手配してもらったの。なかなか返事が返って
来なかったからダメかと思ったんだけど、さっきタリン入りしたっていう連絡が入ってね。今頃、任務に取り掛かっ
ているんじゃないかしら?」
「それじゃ……、市民の方々は大丈夫なのですね!?」
「ええ。何せ、3人も派遣執行官がついているのよ。問題ないわ」
「そうだったんですね……。よかった……」
アベルの安心した顔を見て、も自分のことのように安心する。
これもすべて、時間を割いてレオンとユーグを呼んでくれた“教授”のおかげだ。
「で、向こうが3人いるからということで、君がここに来たわけだネ?」
「その通りです、ボルジア司教。そもそも、中にアンハルト伯爵夫人のお姿が見えなかったものですから、
もしかしてこちらにいるのではないかという疑問もありましたので」
「なるほどね……」
おかしい。
この男は、自分があの銃撃の最中で、プログラム「ヴォルファイ」によって移動したのを目撃しているはずなのに、
そのことに関して何1つ問い質そうとしない。
普通なら、疑問に思ってもおかしくないのに、表情は先ほどから何1つ変わっていない。
まさか、「彼ら」のことに関して、何か1つでも知っていることがあるのではないか。
もしそうなら、あとでちょっとした処理をしないといけない。
自然と視線が鋭くなってしまいそうになり、は必死になってそれを押さえた。
「ああ、そうそう。ところでセニョーラ・クリスタ。あなた、どこかでアルフォンソ・デステを見かけませんでし
た?」
が不信感を抱いている一方、当のアントニオはクリスタの方に手を回し、
落ち着かせるような声で彼女に問い掛けていた。
「あの男を人質に取れば、うまく脱出出来るかも。……城のどこかで見かけられませんでしたか?」
「さあ、ひょっとしたら見かけたかもしれませんが、私、あの方のお顔はご存知ありませんので。ごめんなさい、お
役に立てなくて」
「いや、いーんですヨ。……おっと、着いたかナ?」
開かれた格子戸から見えたのは、居心地よさそうな詳細だった。
壁の棚と暖炉の前にいたのは……。
「下が騒がしいな。……何かあったのか、フリードリッヒ?」
机の前で何かを話し合っていた2人のうちの1人が振り返ると、その場にいる人物を見た瞬間、
皺深い顔に驚愕と狼狽を浮かべて顔を上ずらせる。
「き、貴様は!?」
「ようやく再会出来ましたわね、アルフォンソ・デステ元大司教……」
が目の前にいる男――アルフォンソ・デステに向けて言うと、
相手は傍らで無表情に頭をあげたもう1人の男を盾に取ってあとずさっていた。
相変わらず、1人では何も出来ない男だ。
はふとそう思いながらも、言葉に出していうことをやめ、盾にしている男の顔を見た。
……もしかして、あれはまさか……!
「き、貴様ら、一体どこからここに――」
「おっと動かないで!」
アベルやが銃を抜く前に、アントニオが警告の声を発すると、
小銃を目の前にいる2人に向け、勝ち誇ったように叫ぶ。
「主は己を助ける者を助ける……。ボクら、何て幸運なんだろう、アベル君、君! 探しモノがこんな形で両方
とも見つけられるなんて!」
「両方とも? それじゃあ――」
「はやり、彼が“智天使”!?」
アベルの言葉の先をが先に言う。
確かに彼は、事前に見つけていたデータと同じ顔をした人物だ。
「アベル君、キミは昇降機の電源を落としてくれたまえ。下の連中に昇って来られると困るからネ。君は、そのま
ま銃を2人に向けておいてくれたまえ。セニョーラ・クリスタ、貴女は“智天使”をこれで縛って下さい」
周りにいる同行者にてきぱきと指示を送りながら、小銃の提げ紐をクリスタに渡した。
は指示通り、目の前にいる2人に銃をかかげ続けていたが、途中、横にいたアントニオの不可解な行動を目撃した瞬間、
彼女の銃口が2人からずれていった。
「きゃあああっ!」
アントニオの小銃の先には、無事に“智天使”を縛り終えたクリスタの姿がある。
それを見た瞬間、は全てを察知したかのように、アントニオの方を見つめた。
「アントニオさん! あなた、何やって――」
「……こんなことになって、ボクとしては非常に残念ですヨ、セニョーラ・クリスタ」
割って入ろうとしたアベルを片手で押しとどめたのはアントニオではない。
引き続きアルフォンソと“智天使”に銃口を構えなおしただった。
「さん!」
「お願い、アベル。ここはしばらく、ボルジア司教に任せて」
ここで全てを話しても構わないのだが、相手が正体を見せた時に言った方が都合がいい。
ここはアントニオに任せ、は一歩下がる形で見守ることにしたのだった。
「さあ、三文芝居はおしまいにしようヨ。……そろそろ正体を教えてくれてもいいだろう? キミは一体何者なん
だい、アンハルト伯爵夫人?」
「何をおっしゃっているのです、司教様? 私、おっしゃっている意味が全然分かりませんわ! 私は私です!
正体なんて――」
「でも、キミ、さっき言ったよネ。――“アルフォンソの顔は知らない”と。じゃあ、どーして今、ボクの指示に
従うことが出来たのかなァ?」
なるほど、そういう手で来たか。
は納得したように呟くと、珍しく尊敬したようにアントニオを見ていた。
以前、“教授”が言っていたことは本当のことだったらしい。
「“智天使”を縛れって言われて、迷わず“智天使”を縛ることが出来たのはどーしてかなァ? キミは最初から
“智天使”あるいはアルフォンソの顔を知っていたんだ。――違うかい?」
「……あ」
ようやく事の状況が理解したかのようにアベルが口を開けると、咄嗟に貴婦人の方に視界を滑らせる。
その表情は、今までなぜ気づかなかったのかと言わんばかりに驚きを隠せないでいる。
「ただ、分からないこともまだあるんだよネ。てっきり、ボクはキミのことを新教皇庁のスパイか、ボクらを煽ろう
とするメディチ枢機卿の手の者かと思ったんだ。でも、それだと、ボクらを“智天使”に接近させた理由が説明出来
ないんだよネ。……伯爵夫人、キミは一体何者なんだい?」
「それは私が答えます、ボルジア司教」
アベルとアントニオが気づいたときには、の左手にはもう1挺の銃が強装弾装備に設置され、
クリスタの前に突きつけていた。
一体、いつの間に……?
「ようやく、ご対面出来たわ、アンハルト伯爵夫人クリスタ様、いえ……、“薔薇十字騎士団”階位8=3、
称号“氷の魔女”、ヘルガ・フォン・フォーゲルワイデ!」
の答えに、最初に驚いたのはアベルだ。
相手があのテロリストのメンバーだったことより、どうして彼女がその情報を知っているかが気になるらしい。
「さん! いつの間にそんなことを!?」
「今朝、あなたが彼女と一緒にキッチンへ向かった直後、データがこちらに入ってきたの。その後、すぐにでもあなた
やトレスに伝えたかったけど、お互いに準備があって、なかなか言い出せなかったのよ」
「ってことは、最初から疑って……」
「アベル、あなた、私が薔薇の香水以外に敏感な匂いが何なのか、忘れてなんていないわよね?」
に逆に質問され、アベルは自分の言葉を切られてしまう。
しかし、が出した質問の答えを思い出した瞬間、何かを察知したかのように言い返した。
「もしかして、あの時――!」
「そう。4日前、私が気分を害して倒れたのは、薔薇の香りに血の匂いが混ざっていたからよ」
通常、血の匂いは頻繁に出されているものではない。もちろん、それを押さえることも可能である。その上、この血の匂いは普通の人間では感知しにくく、普通に横を通っても全然気にならない匂いなのだ。
しかしそれが香水――例えば、薔薇のような少しきつめなものをつけた場合、2つの香りが表に出てしまい、時に異臭とも思わせる匂いを引き出してしまうのだ。その香りは、普通の人間がかめば吐き気が出るほど酷く、場合によっては呼吸混乱を引き起こすケースもあると言われている。
「しかし君、ボクやワーズワース博士、神父トレスは、あの時何も感じなかった。アベル君もそうだろう?」
「え、ええ、まぁ、確かに……」
「それにはいくつか理由がありますが、あの時のは無意識に発していたもで、あまり大量に排出されていなかったの
で、普通の人間には気づきにくく、大したダメージにならなかったからというのがあります」
「じゃ、どうして君はあの時、気分を悪くしたんだい?」
「それは……、ま、いろいろあるんですけどね」
どうして自分だけが感知したのか。その理由を知る権利は彼にはない。
は答えを少し濁したが、これ以上散策されないように、もう一言言おうとしたその時――。
「く……くくっ……、実に愚かよな」
今まで蒼白な顔でわずかに俯いていたクリスタが、低くため息をするように、悪意に満ちた嘲笑をし始めた。
まるで、この世のすべてを嘲るかのように。
「せっかくこの妾が、こんなつまらぬ芝居まで打って骨を折ってやったというのに……。実に愚かだ、そなたらは」
「おっと、動かないで!」
アントニオが鋭い警告を飛ばしたが、相手はそれを無視するかのように、
スカートの下から取り出された細長い棒を、彼が持っている小銃に向ける。
「女性を打つのはボクの趣味じゃないんだよネ。ここは大人しく――」
「「――避けて、アントニオさん(ボルジア司教)!」」
クリスタ――あるいはそう名乗っていた女の握る棒がアントニオを指したのに気づいたのはアベルとは、
本能的にアントニオにタックルをかける。
3人は床に倒れ、かすめるように行き過ぎたモノを見ると、そこには1メートルはあろうという巨大な氷柱が、
手前にある本棚ごと石壁に深々と刺さっていたのだった。
「あのまま、このヘルガの思い通りに動いておけば、そなた達も、スフォルツァも、無事に命を拾ったであろうに
……。あたら小賢しさが命を縮めたのぅ」
女――“氷の魔女”が、再び小杖を差し伸べると、白く発光を始めた先端部の水晶を3人に向ける。
それを固唾を飲んで、床にいる者達は見つめている。
「本当は、汝らの手でスフォルツァを救わせたかったのじゃが、こうなった以上はやむを得ぬ。この“智天使”は、
妾の手で直接ローマに届けるとしよう。……だから、汝らは安心してあの世に参るがいい!」
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