「ナイトロード神父、シスター・はどうしたのですか?」
提訴が取り下げられ、ようやく肩の力が抜けたカテリーナは、
目の前にいなくてはならない部下が1人足らないことが気になっていた。
「彼女のことですから、体調を崩すことはないとは思いますが、何かあったのですか?」
「はあ、それがさん、相変わらず人がたくさんいるところが苦手みたいでして。中庭で待っているそうです」
「……ああ、そうでしたね。彼女はこういった場所、得意ではありませんでしたね」
5年前の教皇選出会議依頼、はこういった発言する場に立つのが苦手になっていた。
自分の発言1つで、全てが決まってしまうのではないかという、ある種の恐怖心を持ってしまったのだ。
それがたとえ、今回みたいにたくさんの証拠を提出したとしても、彼女はきっと拒否反応を起こしてしまうだろう。
「のことは、あとで個人的に話を聞きましょう。それにしても酷い格好だこと……。また、苦労をかけましたね」
「えへへ、それほどでも。それより、お礼ならこちらに。いやあ、聖下には随分と無理していただきましたからね」
「ごご、ご無事で何よりでした、姉上」
アベルに促され、後ろに隠れていたアレッサンドロが、レオンに押されるように前へ進み出る。
直接カテリーナの顔を見るのが恥ずかしいのか、顔を赤らめて俯いている。
「あ、姉上のこと、ぼ、僕、ずっと心配だったんですけど、フランチェスコ兄様が、め、面会を許してくれなくて
……」
「……ありがとう、アレク」
今にも泣き出しそうなアレッサンドロの頬をそっと包み込み、お礼を言うように額に唇をあてる姿は、
心の底から感謝しているようだった。
「今回の一軒、濡れ衣を晴らすことが出来たのはあなたのお陰です。……本当にありがとう」
「あ、姉上……、が、ぼ、僕に言ったんです。ぼ、僕にはちゃんと、やや、やり遂げる力が、し、しっかりと備わ
っているはずだって。な、な、何かに怯える必要も、ここ、怖がる必要も、な、ないって。だだ、だから、それで
……」
前教皇、グレゴリオ30世に長年仕え、行動を共にした人物だから言えることだと、カテリーナは思っていた。
きっとのことだから、彼に視線を合わせ、何かのおまじないのように伝えたのかもしれない。
それが結果として、アレッサンドロをここまで動かしたのであれば、自分は彼女にお礼を言わなくてはならない。
「――スフォルツァ猊下」
泣きじゃくり始めたアレッサンドロに労いの言葉をかけようとしたが、
厚いファイルを脇に手挟んだシスター・パウラによって断ち割られてしまった。
「猊下、国務聖省の職員が連れて来た証人ですが、問題の性質上、異端審問局も合同で尋問にあたるべきかと存じます――」
シスター・パウラの提案を途中まで聞いたアベルは、邪魔をしないようにその場から離れると、
イヤーカフスを軽くたたき、本当はここに来るべきだったもう1人の同僚に話し掛け始めた。
「さんさん、聞こえますか?」
『聞こえるわよ、アベル。どうだったの?』
「無事、提訴は取り下げられましたよ」
『そう……。……よかった』
奥から聞こえる声は本当に安心していて、それを聞いたアベルも、思わず安心したかのように微笑む。
近くに彼女がいたら、その喜びもより一層大きくなったはずだ。
「今からみんなで、そっちに向かいますから待っていて下さいね」
『分かったわ。……それにしても、ようやくゆっくり休めるわね。ここ最近、ろくに眠ってないし』
「そうですね。本当、ようやく力が抜けますよ。きっと、さんのミルクティ飲んだら、もっと休めそうです。……
ということで、今夜また、お邪魔しますね」
『いいわよ……って、えっ!?』
「じゃ、今からそちらに向かいますね。――以上、交信終了」
『ちょ、ちょっと待ちなさいよ、アベ―――』
相手の声が途中で途切れたが、それに気にすることなく、アベルはイヤーカフスを軽く弾いて、
嬉しそうな顔をしながら上司と同僚がいるところへ戻っていく。
今頃、彼女は焦っているだろうか。それとも、喜んでいるだろうか。
そんなことを思いながら、アベルは相手の顔を想像していたのだった。

「……全く、何を考えているんだか、あのアホ神父は!」
アベルが勝手に交信を切り、自分の発言が何1つ出来なかったことに、は少し苛つきを感じていた。
いつも思うのだが、どうして彼はこういう時になると、
自分の意見とか感想とかを聞く前に去ってしまうのだろうか。
そんなことを考えながら、はようやく中庭へ到着する。
そんなに長い距離ではないはずなのに時間がかかってしまったように感じるのは、
はやり「彼」との会話が少し長かったからなのかもしれない。
そんなに長居出来ない身なのに、無理に引きとめてしまったような気がして、
少しだけ申し訳ない気持ちになってしまった。
(……本当、ちゃんと決心しなくちゃいけない……)
先ほどの会話の内容を思い出しながら、はふと心の中で呟く。
封印して、一体どれぐらいの年月が立っただろうか。
昔はよく数えていたが、今は忙しくて、それすらしなくなってしまっていた。
思わずため息をつきながら、中庭の中へと入っていくと、噴水の側で誰かが話し合っている風景が見えて、
思わずその方へ視線を動かす。
それはまさに、先ほどまで裁判所の中にいたフランチェスコと、
同じく外で待っていたと思われるアントニオの姿だった。
「先ほどは賢明でしたネ。退き際を見極めることほど難しいことはありません。……さすがはメディチ枢機卿、
思い切りのよさにはつくづく感服しましたヨ☆」
「……連中がアレッサンドロを担ぎ出したのは卿の入れ知恵だな、ボルジア司教?」
「振り上げた拳の降ろし場所って、結構ムズかしいもんなんですよネ☆」
指摘されても特に気にしていない雰囲気のアントニオを見ながら、は安堵のため息をついた。
が消去したデータは何の障害もなく、アントニオの中できれいに忘れられているようだ。
あのデータはカテリーナとAxのメンバー全員、フランチェスコにアレッサンドロ、
そしてアルフォンソ・デステと彼の兄である前教皇、グレゴリオ30世のみしか知らないことだった。
アルフォンソが知っていた理由は、当時グレゴリオの護衛をしている身分だったため、
やむを得ず伝えたことであって、もしその用も済んだら、すぐにでも消去する予定になっていた。
しかし思った以上にAxの仕事が忙しかったため、なかなかそこまで手が回らなかったのだ。
もし早いうちにアルフォンソからデータを消去していたら、アントニオの脳内に侵入する手間が省けたのに。
の胸に、そのことがのどに引っかかって外れなくなりそうだった。
「……おや、猊下、どちらへ?」
そんなことを考えている間に、フランチェスコが中庭を横切り、自分の執務室へと向かって歩き出していた。
「執務に戻る。……叔父の処理だの、今回の審問の後始末だの、仕事はいくらでもある。それに、あの女との再戦の
準備もせねばならんしな」
フランチェスコはそれだけ言い捨てると、出てきたのとは反対側の方向へ向かって歩いていったが、
途中、何かを察知したのか足を止めた。
「……いつからそこにいた、?」
「今、到着したばかりです、メディチ猊下」
声をかけられたがフランチェスコのそばまで歩み出ると、右手を胸にあて、ゆっくりと頭を下げた。
それはまるで、何かに深く感謝しているように見える。
「本日は、カテリーナの提訴を取り下げていただき、ありがとうございました」
「お前達Axがあれだけの証拠を揃え、それでも刑が執行されるとでも思ったのか、?」
「いいえ。その時は私が、あなたの首をもらいに行ってたでしょうね」
頭を上げるは、すべてが予定通り進んで安心しているような表情をしていた。
その顔を見て、フランチェスコは振り返り、彼女に背中を見せたまま話し出す。
「もともと、俺としても今回の猿芝居はきに食わなかった。ただ、それだけだ」
「そうだろうと思っていました。……しかしパウラといい、マタイといい、あなたの部下も相変わらずしつこいです
ね。私が苦手なタイプの人材ばかり揃えてどうするのですか?」
「彼らは俺の優秀な部下達だ。お前にケチをつけられる覚えはない」
「それはご尤もですわね、猊下」
含み笑いをしてしまったを背に、フランチェスコは再び執務室へ向かって歩き出す。
しかし何かを思ったのか、数メートル離れたところで足が止まり、まだいるであろう人物に話し掛けた。
「……最近、お前の淹れる紅茶を口にしていなかったな」
突然の発言に、は少し驚き、思わず小さく声を上げそうになった。
「たまには紅茶を飲みながら、仕事のことではなく、昔話に花を咲かせてみたいものだ。……長く時間は取れないが
な」
大きな背から、どことなく寂しそうに見えたのは気のせいであろうか。
しかしそれは紛れもなく、何かを強く押し出していた。
確かにカテリーナの護衛についてから、はフランチェスコの所へあまり行かなくなった。
行くとしても、カテリーナに頼まれた資料を提出したりとかしかなかったから、
のんびりと話す機会も取れなかった。性格は傲慢だが、決して嫌いな人ではないし、
時に尊敬すらする人物なだけに、は寂しい想いをさせてしまったことに深く反省した。
「……今度、ベリーのピュアダージリンとマドレーヌを持って参上しますわ、メディチ猊下」
後ろから聞こえる声に、フランチェスコは少し驚いたように振り返る。
そこに見えたのは、昔よく見せる、「天使」のような笑みだった。
「ですから、時間の方、開けといて下さいね」
「……考えておく」
少し照れたような顔を見せたのは、にとっては珍しいことではなかった。
もともとこういうことが得意でないことを知っていたし、何度も目撃しているからだ。
執務室に向かって消えていく姿を見送ったあと、は燦々と照り輝く太陽を見つめていた。
寒いはずなのに温かく感じるのは、はやり何事も無事に終わったからであろうか。
「君って、やっぱりすごいよネ。あのメディチ猊下に言い寄れるんだから」
突然声をかけられ、は後ろを振り向くと、先ほどまで黙ってフランチェスコとの会話を聞いてたアントニオが、
に満足そうな顔をして見つめていた。
(そうだった、この人、いたんだった……)
決して忘れていたわけではないのだが、なぜか視界から消えてしまっていた存在だったため、
は思わず心の中でため息をついてしまった。
きっとフランチェスコのあの表情を見て、写真を取れなくてがっかりしているに違いない。
「昔にいろいろありましたからね。それに、つき合いもスフォルツァ猊下より長いですし」
「ふ〜ん。……でさ、君。どうせだったら、今度ボクともお茶しないかい? この近くにおいしい紅茶を入れると
ころがあって……」
「お断りします、ボルジア司教!」
何かを察知したのか、はすぐに断りの返事をした。
だがアレッサンドロに接触して、ここまで連れて来てくれたのは彼なのだ。
そう考えると、は少なからず、彼にお礼をしなくてはいけないことになる。
……1回ぐらいなら、つき合うのも悪くないか。
「やっぱ、そのお誘い、受けさせていただきますわ、ボルジア司教。しかし、私が本当に納得するところじゃなか
ったら、許しませんからね」
「もちろんだよ、君! よかった〜、これでようやく前進したヨ!」
「どういう前進ですか、それ……」
呆れながら言うのことなど視界に入っていないかのように、アントニオは顔に満弁の笑みを零し、
少し浮かれてたように走り回っている。
それを見ながら1つため息をつくと、先ほどが歩いていた通路から、誰かが歩いてくる音がしてきて、
はそちらに視界を移した。
「あ、さん、いましたよ!」
中に入ってくるなり聞こえる声に、は思わず、その方向へ走り出し、相手の顔を満弁の笑みで迎えた。
銀髪の神父のあとからやってきた人物に向かって、は思わず抱きついてしまう。
相手は少し驚いたようだったが、しばらくして事を理解したのか、彼女の体を優しく包み込んだ。
「ご苦労様でした、。……あなたにはまた、迷惑をかけてしまいましたね」
「いいのよ、カテリーナ。……おかえりなさい」
目に溜まっていた涙が、すぐに止まることなく、頬を伝って流れ続けていた。
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