特務分室の前まで来ると、は何故か大きく深呼吸をしてから扉を開けた。
理由は分からないが、少し緊張しているようだった。
「おっ、戻って来たね。気分はよくなったかい?」
「お陰様で。ごめんなさい、心配かけて」
「本当だヨ、君。君がいなくなったら、ボクはここに生きている意味なんてないからネ」
「そんな、大げさな……」
思っていたことがつい口に出てしまったが、相手は特に何も感じていないようだ。
自身も、別に大した発言じゃないと思っていたので、これ以上は突っ込まないことにした。
それよりも、今はしなくてはいけないことがある。
は何か決心したかのように、アントニオの横に座っている貴婦人の前に立ち、頭を下げた。
「初めてお目にかかります、アンハルト伯爵夫人。私は、教皇庁国務聖省特務分室派遣執行官、シスター・・と
申します。先ほどはあんなことになってしまい、大変失礼致しました」
「いいえ、そんな、頭をお挙げ下さい、シスター・。香水が苦手な方はたくさんいるのは知っておりましたし。
ご気分は、よくなられましたか?」
「ええ、もうすっかり。冬のローマは寒いですが、空気がとても澄んでいて、そのお蔭で助けられました」
「私も、ローマの空気はとても好きですわ。ああ、出来ることなら、夫も連れて来たかった……」
「ご主人のことは、ナイトロード神父から伺いました。私も無力ではありますが、お手伝いさせていただきます。
よろしくお願いします、アンハルト伯爵夫人」
クリスタからは普通に薔薇の香水の香りするだけで、少し辛いが咽るほどではない。
プログラム「フェリス」がガードをしているからだろうと思ったが、それにしては視界がくっきりしている。
そうだとしたら、先ほどの香りは気のせいだったのか?
「アンハルト伯爵を助けに行くということは、卿の決断はタリンに行くこととみなしていいのか、ナイトロード
神父?」
「ええ。なので“教授”に、“剣の館”に止まっている異端審問局の車をどかして欲しいのです」
「それはかまわないさ。確か、ロレッタ君がいるはずだから、彼女にも手助けしてもらおう。確か、この近くに……」
“教授”が近くにいるはずのロレッタを探すために特務分室を出て行くと、
がその場に大きく伸びをして、体をほぐし始めた。
「それじゃ、準備しなくちゃいけないわね。えっと……」
「卿はここで待機していろ、シスター・」
“教授”のラボへ行こうとするを、トレスが腕を掴んで止める。
意味も分からず、頭に疑問符をつけたまま、はトレスに引っ張られるがままに、
電脳情報機の前に無理やり座られる。
「ちょっ、ちょっと、トレス! これ、どういう意味よ!?」
「卿は先ほどまで、極度の喘息に襲われていた。今はよくなったとは言え、再び体調が悪化した場合、タリンでの
任務に師匠が生じる可能性が高い。よって、今はここで体力を温存することを推奨する」
「でも……」
「“教授”のラボで必要なものがあるのであれば、俺が代わりに取りに行く。卿はここで、座って待っていろ」
トレスの目がいつもと違い、一瞬彼女を心配するかのように見つめている。
実際、彼がこうしてを心配したのはこれが初めてだ。
いつもだと、先に自分で傷などを治してしまうため、トレスが心配するまで至ったことがないのだ。
たまには、この機械化歩兵に甘えるのも悪くないかもしれない。
は1つため息をつくと、彼に笑顔で要求する。
「それじゃ、短機関銃用の銃弾と、この前、ブルノで使った強装弾を、それぞれ1ケースずつ持って来て。ああ、
あと、普通の強装弾もね。調合ぐらいだったら、してもいいでしょ?」
「肯定。ここから絶対に離れるな、シスター・」
「分かったわよ。お願いね」
は笑顔で、奥にあるラボへと消えていくトレスを見送ると、
目の前にある電脳情報機で、ローマ国際空港チーフ、モーフィス・ライマンへ緊急交信をし始めた。
“アイアンメイデン”の離陸許可を得るためだ。
相変わらずな速さで打ち込んでいくと、その横に何かが置かれたのを感知し、は打ち込む手を止めた。
横に置かれたのは、彼女がいつもここで愛用しているティーカップに、
ミルクがたっぷり入ったロイヤルミルクティと、ちょっとしたクッキーが添えられていた。
「あまり、無理はいけませんよ、さん」
声が聞こえる方に向くと、そこには見慣れた笑顔が注がれていて、は少し驚いたように目を見開いた。
「アベル、これ、あなたが?」
「クッキーは、ここにあったのをちょっと頂きました。さん、ミルクティとかは、お砂糖を少し入れるんでしたよ
ね?」
「ええ、そうよ。よく覚えていたわね。ちょっと、感心したわ」
中途半端な甘さなのが嫌で、ミルクティ系統のものには砂糖を入れるのを、何度か目撃していたからであろう。
は何も言っていないのに分かってしまったことに驚きつつも、何だか嬉しくて、彼にそっと笑みをこぼし、
その紅茶を一口飲んだ。ちょっと甘いが、初めてにしては上出来だ。
「美味しい。何か、こう……、すごく優しい味がする。ありがとう」
「どういたしまして」
「コラコラ、君達、ここで見せびらかされたら困るヨ。第一、君はどうして、アベル君みたいなヒョロヒョロなの
が好きなのかい? ボクと一緒にいたら、きっと楽園にいるような気分にさせてあげれるのに」
「そんなの望んでいません、ボルジア司教!!」
「大人しく座っていろと言ったはずだ、シスター・」
「あ、ご、ごめんなさい……」
アントニオの発言で思わず立ち上がった時に、
タイミングよくラボから希望の箱を持って戻って来たトレスに一括され、は少し慌てたように椅子に座り直した。
平均女性よりも長身な彼女が、何だか小さく見えた。
「ローマ国際空港チーフ、モーフィス・ライマンに、“アイアンメイデン”の離陸許可を得たい。交信出来るか?」
「今、その最中だったのよ。とっとと終わらせるわ。で、空港までの移動手段はどうするの?」
「1台の車で移動するには、人数オーバーだ。よって、俺が自動二輪車で先行し――」
「待った。もし早く到着したいのであれば、私が愛車に乗って、トレスが車を運転した方がいいんじゃない?」
「俺は卿がまだ体調が万全ではないと、180秒前に言ったはずだ」
予想していた以上に、彼は自分のことを心配している。
は直感でそれを察知した。その気持ちは嬉しいし、ありがたいのだが……。
「でもね、トレス。私達には時間がないの。1分でも1秒でも早く、タリンに入国しなくてはならないのは、あなた
もよく分かっているでしょう?」
「肯定。だが卿は……」
「そんなに私が柔じゃないこと、トレスは知っているはずよ? 大丈夫、無理はしないわ。限界が来たら、ちゃんと
言うから。ね?」
の目は、まるで何かを訴えるように、真っ直ぐトレスに向けられている。
それには1つも迷いがなく、自信に満ち溢れていると言ってもいいほどだ。
「……了解した。だがもし卿に何か起ころうと、それは自己責任として処理する。それでもいいなら、俺は卿の指示
に従う」
「ありがとう、トレス。……恩に着るわ」
安心したように見つめるを、トレスはどう捕らえたのか分からないが、
各々の銃弾が入った箱を机の上に置き、再びラボへと戻って行った。
その姿を見ながら、はかすかに笑い、そして目の前にいるアベルに言った。
「やっぱ私、トレスを修理してよかったわ」
その言葉の意味が分からず、何度も瞬きをしているアベルが、に再び笑いを与えた。
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