午後9時30分。
 1台のワゴン車が、ローマ国際空港内にある飛行艇倉庫の
1角で止まった。
 中から出てきたのは、青い尼僧服を身に纏った
1人の女性である。




「毎日、ご苦労様です。職員も、楽しみに待っていたんですよ」

「そのお言葉、スフォルツァ猊下が聞いたらきっとお喜びになられます。準備が済み次第、中にお運びします」




 モーフィスの前で一礼すると、車に戻り、トランクを大きく開いた。
 中から組み立て式のワゴンを取り出して骨組みを組む姿は非常に手馴れており、てきぱきと設置していく。
 どうやらここ数日のうちに、すっかり身についてしまったらしい。



 ワゴンの上に、大量のサンドウィッチを盛った大皿とミニストローネが入った大鍋、
 紅茶が入ったポットと大量のお皿と器、ティーカップを手際よく載せると、再び倉庫へ向かい、
 先ほど扉を開けてくれた者に頼む。

「すみませんが、扉を開けてもらってもいいでしょうか?」

「もちろんですよ、シスター・ロレッタ。何なら、私が中にお入れしましょうか?」

「いいえ、1人でやれるので大丈夫です。ありがとうございます」




 白い作業着を来た男――モーフィス・ライマンは生まれも育ちもローマなのだが、
 父親がアルビオン出身ということもあり、その血筋を引いてなのか、
 ローマの者とは思えないぐらいの紳士ぶりを発揮することが多い。
 自分の職場に正真正銘なアルビオン紳士が派遣執行官にいるのだが、
 彼とあまり変わることのないぐらいの礼儀正しい人物であるため、
 教皇庁国務聖省長官カテリーナ・スフォルツァの秘書官、シスター・ロレッタは毎回彼に会うたびに見とれていた。
 今日もいつもと変わらない紳士ぶりに、思わず顔が赤くなりそうだ。



 そんなモーフィスの案内で中に入ると、何度見ても驚かされる巨大戦艦の左側を通り、
 ちょうど真横になる場所に設置されているテーブルに、ワゴンの上に載られた物を置いていく。
 食べ物の美味しい匂いに、作業をしていた整備員達が、一斉にそこに集まり出せば、そこはいつの間にか、
 ちょっとしたレストラン状態へと変貌していった。




「それにしても、相変わらず大きいですね。“アイアンメイデン”と比べると、こっちの方が大きいんじゃないん
ですか?」

「いいえ、全長は初号機とあまり変わりません。ただ、今回は飛行艇型な上に真っ白ですから、そう思われてしま
ってもおかしくないかもしれませんね」




 “アイアンメイデンU”と、今使われている“アイアンメイデン”との差はあまりないが、
 少し大人し目な外観にしたためか、こちらの方が大きく見えてしまう。
 さらに性能ははるかにこちらの方が高く、今後の任務に一役買うことは間違いない。




「この外観や設計を担当したワーズワース博士はすごい方ですが、この空中戦艦の全プログラムを担当している
シスター・もすごい方ですよ。午前8時に到着して、もうすでに起動プログラムを完成させたようですか
らね。今、戦闘プログラムを作成中だとか」

「そう言えば、シスター・が戻ってきているんでしたね。今、どちらに?」

「戦艦内の操縦室(コントロール・ルーム)、プログラム入力中じゃないでしょうか。彼女は集中し始めると、物音が一切聞こえなくなって
しまう方ですからね」

「でも食事を取らなかったら、体力が持ちませんし、どうしたらいいでしょうか……」

「中に入っても構いませんよ、シスター・ロレッタ。内装はすべて完成していますし」

「でも、それじゃお邪魔になりませんか?」

「心配いりません。整備員達には、私の方から注意しておきますよ」




 爽やかな笑顔に、またしてもロレッタの顔が赤くなりそうだったが、
 今はそんなことで舞い上がっている場合ではない。
 彼女は1人前のサンドイッチとミネストローネ、ケイトがブレンドしたハーブティが入っているティーポットと
 ティーカップをお凡の上に載せると、恐る恐る“アイアンメイデンU”の中へ足を踏み入れた。



 入ってすぐ手前にあるラウンジは全てガラス張りになっており、
 外の様子が180度パノラマで見れるほどの広さを誇っていた。
 すでに中にはソファやローテーブルなども備え付けられており、ロレッタはお凡ごとローテーブルに置くと、
 この中にいると思われる尼僧を捜し始めた。




「シスター・、どこにいますか?」




 たとえ大声で叫んだにしろ、この大きさともなるとそう簡単に声が届くわけもなく、
 ロレッタはとりあえず艦内を見学しながら見つけ出す手段を取ることにした。



 ラウンジを出ると、長い廊下が広がり、少し先へ進めば階段が見え、上下に分かれていた。
 “アイアンメイデン”の時上が医務室などの設備があったから、もし同じ構造になっているのであれば、
 下が操縦室になっているに違いない。



 ゆっくり階段を下りていくと、徐々に暗くなっていき、足元に光る青い歩道灯だけを頼りに前へ足を進めていく。
 少し歩くと、目の前に黒くて分厚い扉が現れ、それがどうやら操縦室へ続く部屋となっているようだった。




「シスター・、聞こえたら返事して下さい」




 声を張り上げて叫んだが、この分厚い扉ではそう簡単に聞き取ることは不可能であろう。
 意を決して、扉に手をかけると、見かけよりも簡単に扉が開かれ、そっと中を覗き込む。




「……何なの、これ……!!」




 周りにたくさんの
電脳知性(コンピューター)がひしめき合い、闇の部屋の中で煌々と光っている。目の前にある巨大モニターには、
 普通の人間では理解出来ない暗号のような言葉が綴られており、1文消えればまた1文と増えていっている。




「よく私の居場所が分かったわね、ロレッタ」




 突然、どっからともなく聞こえる声に、一瞬ロレッタがビクッとしたが、
 目の前で電脳知性の光を浴びながらキーボードを打ち続けている人物の姿を発見する。
 その人物はちょうど彼女が捜していた者だったので発見出来たことに安心したが、
 いつもと違う格好をしていることに驚いた表情を見せた。




「シスター・、その格好は!?」

「さっきまで、下の配線コード弄っていたから、汚れてもいいように、モーフィスに作業着を借りたのよ。……これでよし。あとはこのまましばらく待って、最終チェックすれば完成よ」




 ようやくキーボードを弾く手を止め、大きく伸びを1つすると、
 白の作業着に、茶色の長い髪を上で束ねた女性――シスター・・キースは、
 何かが吹っ切れたような顔をしてその場に立ち上がった。




「休憩が終わったら、モーフィスにエンジンの確認をしてもらわないとね。今夜中に、テスト飛行しちゃいたいし」

「もう飛べるんですか!?」

「ええ。起動プログラムも無事に転送(ロード)終了しているしね」




 笑顔で答えるに、ロレッタは驚いた表情を崩すことなく、
 むしろ先ほどよりも驚いたように目を見開いている。
 はそんなロレッタを見ながら操縦室を出て、階段を上り始めた。
 今の時間は午後10:20。
 ほぼ予定通りである。




「この分だと、午後11時半にはテスト飛行が出来そうね。真夜中なら滑走路、使いたい放題だし」

「その前に、しっかり体力つけて下さい。お食事、ラウンジにありますから、よかったら召し上がって下さい。――
あ、ハーブティ、ポット1杯分じゃ足らないかも……」

「ああ、それなら大丈夫よ。もうここの台所、使えるようにしてあるから」

「……本当、出来上がりが早いですね」

「あれは、ここの整備士さん達の賜物よ」




 上に上がるにつれて、光が眩しく、思わず目を細めてしまう。
 しかしそれに慣れるのに、時間はかからなかった。



 ラウンジに到着するなり、は疲れ果てたようにソファへ座り込むと、
 ロレッタがすぐにハーブティをティーカップに注ぎ、の前に差し出した。




「いい香りね。……うん、味も美味しいわ」

「ありがとうございます。シスター・にそう言っていただいて嬉しいです」

「それは私が、紅茶とかにうるさいから?」

「え、あ、いえ、そういう意味ではなくて、その……」




 自分の心を読まれたと思ったのか、ロレッタが少し焦ったように両手を顔の前で左右に振り、
 必死になって否定しようとする。
 その姿を見たがかすかに笑い、まるで何かを諭すかのように彼女に言った。




「ロレッタ、紅茶を淹れるのに上手い下手なんてないのよ」

「えっ? でも、紅茶を上手に入れる方法とかって、本とかたくさん出ているじゃないですか」

「確かに、それで上手に淹れることは可能かもしれないけど、一番大事なのは、いかに心を込めて淹れたかという
ことなの。だから、いくら上手な淹れ方をしても不味いものもあるし、淹れ方が下手でも美味しく戴けるものもある
のよ」

「シスター・……」




 確かには紅茶通で、それなりの拘りを持っている。
 しかしそれは自分が淹れる時やカフェなどで嗜む時だけで、それ以外の時は一切気にしていない。
 どんなに高級な茶葉を使っていようと、相手の心次第で味は簡単に変わってしまう。
 他人から戴いた紅茶を飲む時、彼女はいつもこれを探し出すのが楽しみの1つになっていた。
 そして今日もそれを楽しむかのように、ロレッタへ満弁の笑みを見せている。



 時にきれいで、時に無邪気に微笑むこの笑顔に、ロレッタは一瞬顔が赤くなりそうになる。
 世の中に、ここまで神秘的な笑顔を振り撒くことが出来る女性がいるであろうか。
 思わずそう感じてしまうぐらい、まるで本物の「天使」のようなの笑顔は彼女の中に輝いていた。




「さてと、これを食べたら、プログラムの転送が終わるまで、ここでちょっと仮眠取るわ。さすがに朝が早かった
から、ちょっと眠くなってきちゃった」

「何か、かける物をお持ちしましょうか?」

「ストールが鞄の中に入っているから大丈夫よ。ありがとう、ロレッタ」

「いいえ。……ああ、そうそう」




 ラウンジの扉へ向かって歩く足を止め、ロレッタが何かを思い出したかのように後ろを向くと、
 ローテーブルに置かれてあったミニストローネを口にしようとしたの動きが止まり、
 再び彼女へ視線を向けた。




「カテリーナ様、まだ病院にいるようで……。面会時間がもうじき終わってしまうのですが、お迎えにあがった方が
よろしいでしょうか?」

「猊下も、ギリギリまで“教授”の側にいたいんだと思うから、もう少し、そっとしといてあげて。もし迎えが欲しく
なったら、きっと連絡して来るだろうし」




 詳しいことは知らないのだが、ローマに戻ってきてから、カテリーナは毎日のように病院へ足を運んでいるようで、
 今日みたいに面会時間終了寸前まで側から離れないのだと言う。
 他の仕事もあるし、のんびり出来る時間が限られているはずなのに、
 こうして足早に駆けつけるのは彼女なりの「詫び」の気持ちがあるからなのだろうか。
 は一瞬そう考えたがが、もし自分が彼女の立場にいても同じことをしただろうと思い、
 その言葉を飲み込んだ。




「そうですね。分かりました。……あの、シスター・。あまりご無理、なさらないで下さい。私なんかでよろ
しければ、いつでもお手伝いしますから」

「……ありがとう。今はこのお夜食だけで十分満足よ」

「そうですか。よかった。それじゃ私、これで一度失礼します」

「本当にありがとう、ロレッタ」




 が再びロレッタに笑顔を向けながらお礼を言うと、
 ロレッタは再び顔が赤くなりそうなのを隠すかのように頭を下げ、ラウンジの扉を開けて、
 奥へと姿を消していった。
 それを見ながら、は大きくため息をついて、食べそこなったミネストローネを口に運んだ。



 プログラムもほぼ全て転送終了しているから、あとはそれらの最終確認とエンジンや翼などの起動確認をして、
 テスト走行をすれば、いつでも飛べる状態になる。
 上手く行けば、明日の朝にでもヴィエナに飛べそうだ。




「アベル達、大丈夫かしら……」




 ローテーブルに載っているものを全て平らげた後、
 はソファの横に置いてあった鞄から赤のチェックが入ったストールを取り出し、
 ソファに横になった自分の体の上にかけた。



 ここからアベルの場所を探し出すことは簡単だが、ここではあまり無駄な労力を使いたくない。
 ここで体力を温存しておかなくては、カテリーナがこの極秘任務を言い渡した意味を失ってしまう。
 ここは大人しく、何もしないで眠った方が――。




「――つっ!」




 目を閉じて、眠りの世界に入ろうとしたを阻止するかのように、
 まるで何かに切られたかのような痛みが右手首を襲った。




「何なの、この痛み――!」




 右手首を見たとたん、は勢い欲起き上がり、ソファから立ち上がった。
 しかし、怪我をさせるような危険なものは、何1つとして発見されなかった。



 それならば一体、彼女の右手首から出血が出るほどの切り傷はどこから来たのか。




「……まさか、事態は最悪ってこと?」
















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