「……あら?」 ローマのトデヴィの泉に差し掛かった時、アベルと買い物をしていたクレアが目にしたのは、 白の毛並みに、頭が模様のように灰色になっていて、 青い瞳を持った1匹のシベリアン・ハスキーだった。 「どうしたんですか、クレアさん?」 「あれ、もしかしてトランディス……?」 「トランディスって?」 「帝国にいる、アストの知り合いが飼っているって言っていた犬よ。何か、似ているのよね……」 見つめれば見つめるほど、クレアは疑問に思い始めた。 どうやってここまで来たのか、不思議にならない方がおかしいぐらいだ。 「どうしよう? 声、かけた方がいいのかな?」 「う〜ん、難しいところですね〜。……おや?」 「ん? どうしたの、アベル? ……きゃあっ!」 一瞬、アベルの視線を向けているだけなのに、先ほどの犬は彼とクレアのもとまで着ていて、 おもいっきりクレアに向かって飛び込んで来た。 まるで、目的の物を発見したかのような喜びようだ。 「やっぱり、トランディスだったのね! どうしたのよ!? て言うか、 顔舐めようとするのやめなさい!!」 必死になってクレアの顔を舐めようとするトランディスを何とか静止させようと取り押さえようとするが、 さすが帝国の犬、そう簡単に止めることが出来ない。 「アベル! ボーっとしないで手伝ってよ!!」 「あー、はいはい〜っと。……さ、トランディス君、落ち着い……、……ギャー!!」 「だ、大丈夫、アベル!? こらっ、人の腕を噛んじゃいけませんって言ったでしょう、この子は!!」 トランディスをクレアから離そうとしたアベルの腕に、 逆に鋭い歯が食い込み、どんだけ振っても離そうとしない。 無理やり外すわけにもいかないし、どうやって外そうか悩んだ挙句……。 「ほ〜ら、トランディス〜。これ、な〜んだ?」 クレアが紙袋から取り出したものに、トランディスは思わず動きを止めてしまう。 左右に動かせば、アベルの腕を咥えたまま頭が左右に動く。 これは、効果がありそうだ。 「これ、欲しいよね? でも、アベルの腕を咥えたままじゃ無理よね〜」 左右に動かしながらも、犬相手に説得に入るクレアの姿は、 まるで何かを楽しんでいるように見えて、アベルは逆に不安になる。 自分はこのまま、クレアに遊ばれて終わるのだろうか。 いや、きっと彼女のことだから、いい案でもあるのであろう。 アベルはそう信じて、痛みを堪えるように歯を食いしばった。 一方、トランディスは、クレアが左右に動かしているものを見つつも、 アベルの腕をしっかり咥えていた。 しかし、目の前で揺れているものを見つめているうちに、 口元からよだれが出てきて、アベルの僧服を濡らし始めた。 「クレアさ〜ん! 早くして下さいよ〜! 私の僧服がベトベトになって、 使い物にならなくなってしまいます!!」 「はいはい、分かったから落ち着きなさい! ……さ、トランディス。行くわよ〜。……ホラッ!」 「ワン!!」 クレアが手に持っていたものを宙に放り投げると、トランディスはアベルの腕を離し、 飛んでいった方へ向かって突っ走っていく。 それを見ながら、クレアは安心しつつも、 キリエとトレスの餌を買いに行った帰りでよかったと胸を撫で下ろした。 「よし、これでしばらくは大丈夫ね」 「は、はあ、そうですね……。……しかし、威勢のいい犬ですね〜」 「トランディスは威勢がよすぎる上に、食欲も旺盛で手に負えなかったのよね〜」 アベルの方へ向かうと、クレアは先ほどまで噛みついていた腕に右手を翳し、 そこから白のオーラを出し、唾液で汚れた僧服ごと治し始めた。 これぐらいの傷など、普段に比べたら大したことがないため、すぐに完治してしまった。 「ありがとうございます、クレアさん」 「これぐらい、朝飯前よ。……さて、早速問いただしてみましょうか」 アベルの無事に傷を治し終えると、クレアはゆっくりと歩き始め、 先ほど放り投げた骨をしゃぶりついているトランディスの隣にしゃがみ込んだ。 「トランディス、どうしてここに来たの? アストにいじめられたの?」 「……」 「それじゃ……、ミルカ様にからかわれたの?」 「…………」 無言に骨をしゃぶる姿を見ながらも、クレアは普通にこの2つが理由ではないことを確信した。 が、それは同時に、ある1つの例しか浮かばないということにもなるわけで、 思わず肩がガクッとなった。 (ああ、何となく分かったような気がするわ……)
「そうするしかないじゃない。犬とは言え、帝国で育っているのよ? ここに放置して、 何をしでかすか分からないわ」 「でも、家にはキリエさんがいるんですよ? 彼女はどうするんですか?」 「そこなのよね〜。どうしよう?」 クレアには、Axに派遣されたころから飼っているキリエがいる。 彼女の友達が大型犬(しかもドーベルマン)ではあるとは言えど、 初めてのトランディスに懐くかどうか、不安なところは正直言ってあった。 しかも、相手は強暴な上に女好き(?)なのだから、なおさら心配になる。 「……とりあえず、カテリーナに相談するしかないわね」 「そうですね。……クレアさん、これ、見て下さいよ」 「どうしたの? ……ここまでして脱走したの!?」 アベルが見せたのは、トランディスの首輪につけられていた鎖である。 太さは、大体3センチはあると見えるそれは、見事に首から5センチ近くのところで切断されていた。 その先は人によって切断されたものとは明らかに違う形をしていることから、 力ずくで引っ張ったものだと見ておかしくなかった。 「そこまでして逃げたかったのね……」 「みたいですねえ……」 「まあ、とりあえず、“剣の館”まで連れて行きましょう。行くわよ、トランディス!」 「ワン!」 クレアが立ち上がりながら声をかけると、トランディスは一吠えして、 骨をしっかり口で咥えてクレアの後を追うように歩き出した。 その姿は、まるで飼い主と仲良く買い物をしているように見えて、 アベルの口から思わずため息が漏れた。 「はあ〜、犬にやくだなんて、どうかしていますね、私も」 「何、ボーっとしているの、アベル? 早く行かないと、置いていくわよ!」 「わーっ、待って下さいよ、クレアさ〜ん! おお、主よ。愚かなことを考えた私をお許し下さい〜!」 はっとしたようにクレアを追いかけながらも、 アベルは心の中で大人気ない自分へ大して、許しを得ようと祈るのだった。 |
(ブラウザバック推奨)