鍵穴からのぞいた先には、ダークブルーの服装がそこらに溢れかえっていて、
その先頭にいるトレスが指示を出している。
この対応の早さは、ケイトや「彼女」が言っていた、例のパルチザンにいる裏切り者のしわざなのか。
だとしたら、一体どうやって連絡を取り合っているというのだろうか。
疑問が後を尽きることなく流れ、アベルは頭が少しだけ混乱しそうになっていた。
(さん、これって……)
(間違いない。きっと、パルチザンの中にいるハンガリア候への情報提供者が伝えたのよ)
焦るアベルとは逆に、はいたって冷静だった。
それもそのはず。
彼女は誰が裏切り者で、その者の本当の正体を分かっているからだ。
「くっ、よりによって、こんな時に!」
「エステル、こちらです!」
とアベルを我に返させたのは、
普段のおっとりとした挙措とは対照的な素早さで立ちあがったヴィテーズによって、
書籍に仕掛けられていた各市扉が開いた時だった。
壁に人1人がようやく通れるぐらいに開いてある穴の奥には、どうやら急勾配の階段があるようだ。
「前の司教様が作られたものです。……さ、早く!」
「し、司教さまは!?」
「“自分だけ逃げ出すわけにはいかない”。……あなたの言う通りです。30人の聖職者の命を預かる者として、
私はここに残ります」
「だ、だったらあたしも……」
「駄目です! あなたはあなたの義務を果たしなさい」
「でしたら、私があなたと共に残ります! そうすれば、エステルも安心して……」
「いいえ、大尉。あなたはエステルを護る義務があります。私の代わりに、エステルを……」
「もうこれ以上、あなたに恩を着せたくはありません! 一度ならず、二度までも……」
「あなたは私に恩など着せてませんよ。逆に私が、あなたに恩を返さなくてはいけません」
穏やかに微笑むヴィテーズの顔に、胸元がズキズキと痛むのが分かる。
押さえようとしても収まらず、逆に激しさを増すばかりだ。
「私のことは心配する必要はありません。あなたは今、あなたがやるべきことをやり通して下さい」
昔、ある人に同じことを言われ、いなくなってしまった経験がある。
その人はにとって心の支えであり、自分の命よりも大事な人だった。
その人と同じように、ヴィテーズもいなくなってしまうのではないだろうか。
の体に、一気に不安の影が忍び寄ろうとしていた。
「……ナイトロード神父、大尉、この子のことをよろしくお願いします」
「…………行きましょう、エステルさん。さんも」
一瞬、瞳に物異痛げな光が灯ったアベルだが、すぐにエステルの手を取ると、
硬い声で彼女の背中を押す。
そしてにも、同じように声をかけた。
「司教さま……、必ず……、必ず、助けに参ります!」
「どうかご無事で……、ヴィテーズ司教」
後ろ髪を引かれる想いで、エステルとは穴を通り、急勾配の階段を駆け下りていく。
その姿をヴィテーズは、ロザリオを弄りながら、影が小さくなるまで見送っていたのだった。
「お行きなさい、エステル。……主よ、我が娘にご加護をたまわらんことを」
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「エステル! 無事だったか!」
「イグナーツさん、みんなを集めて! 緊急事態です!」
地下室のアジトに戻るなり、エステルは出迎えたイグナーツにすぐ指示を送る。
だが、彼の口からは意外な言葉が発せられた。
「ああ、知っている! ちょうど、ラジオで言っているところだ」
「ラジオで?」
不審げに眉を寄せるエステルに、イグナーツが一同が額を寄せているテーブルに顎をしゃくる。
卓上に置かれたラジオがぼそぼそと何か喋っているがよく聞こえず、
誰かがボリュームを上げた。
そこから聞こえたのは、あのハンガリア候ジュラ・タガール本人の声だ。
イシュトヴァーン市民全てが彼の直轄化に置き、この処理に伴う無用の混乱を避けるために、
市議会と裁判所を閉鎖するというものだったのだ。
「そ、そんな馬鹿な……。“奴ら”が、よりによってこんな堂々と!」
「落ち着いて、エステルさん。まだ続きがあります。……敵もどうやら、打つ手が早い」
「ええ……」
いつになく真面目な顔で眼鏡のブリッジに指をあてているアベルが冷静にエステルを制すると、
エステルとは反対側に立つをかすかに見つめた。
その顔に気づいてか、の彼の顔をちらりと見ると、分からないぐらいに頷く仕草を見せた。
どうやら彼女も、同じことを思っていたらしい。
<また、昨日来の市街地における一連の破壊活動の犯人が、市内聖マーチャーシュ教会の司祭、
アベル・ナイトロード神父であることが確認された。これに伴い、イシュトヴァーン市当局は、
彼に破壊活動の指示を与えた教皇庁に対し、厳重な抗議を行うと共に、聖マーチャーシュ教会の
無期限閉鎖と聖職者の拘束を決定した……>
「……ど、どういうことなんですか、これは!?」
ラジオを聞き終えたエステルの声は、驚きを隠しきれず、
その場に立ち尽くしてしまいそうになった。
それはアベルとも同じことで、思わず顔を顰めてしまう。
(アベル……、これって、まさか……)
(ええ……、間違いありません)
「信じられない、こんなことって……」
聞こえない会話を繰り広げる2人の耳に、微かに震えた声で言うディートリッヒの声が入り込む。
そして、2人が思っていたことと同じ言葉が発せられたのだった。
「信じられない……。吸血鬼どもは、ヴァチカンに喧嘩を売ったんだ!」
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