「そう言えば、さん」




 アベルが水筒に入っていた紅茶を口に運びながら、

目の前で電脳情報機(クロスケイグス)のキーボードを弾くに向けて話しかけたのは、

列車が走り始めて数分立ったころだった。




「以前、イシュトヴァーンに滞在した時に、ジュラさんの記憶からさんのデータだけ

封印(セーブ)したのではなかったのですか? どうやら存在を知っていたようでしたので、

私の聞き間違いかと思ったのですが」

「それが、私がハンガリア候と対面した直後に『彼』が勝手に解除(リリーフ)したらしいのよ。

あれほど許可してからやるように言っておいたのに……」




 封印を依頼した本人から理由を聞いた時の様子が脳裏に蘇り、

の口から大きくため息が毀れた。

だがそれによって、大きな騒動にならなかったので、

とりあえず今回は見逃すとにしたのだった。




「まあ、十分に言いつけておいたから、もう同じようなことは二度と起きないと思うけどね」

「確かに。……それにしても……」

「私のトランクの中に、クッキー入っているわよ」

「おおーっ! ありがとうございますー!! ……って、勝手に開けていいんですか?」

「それはよくないわね」




 アベルの言いたいことなんて、手の取るように分かる。

付き合いが長いからなのか、ただ単に分かりやすいのか。

どっちにしろ、そんな理由などどうでもいいと、疑問をすぐに投げ捨てた。




「はい、アベル。全く、本当にあなたの胃袋は底なしね」

「ほら、言うじゃないですか。『腹が空いては、戦は出来ぬ』って。今のうちに、

たらふく食べて、戦に望むんですよ」

「何よ、その『戦』って?」

「あるじゃないですか、恐ろし〜い『戦』が」

「……ああ、あの『戦』ねえ……」




 アベルの言葉に、は思い出したように苦笑いを浮かべる。

自分にとっては大したものではないが、

アベルにとっては少なからず「戦」になるのかもしれない。




「でも今回は、そんな大きなことしてないから大丈夫じゃなくて?」

「そうかもしれませんが……、……いやはや、ここに来るまで、あっちこっちでいろいろ使ってしまって……」

「まさかあなた……、イシュトヴァーンに来るまでに使い果たしたなんて言うんじゃないでしょうね!?

「そ、そそそそそんなわけないじゃないですか、さん!!」




 焦って言うところからして、疑いがさらに大きくなるのは一目瞭然だった。

そんなアベルをわざとらしく睨みながら、

 は何も言わず、右耳につけている黒十字のピアスに軽く触れ、

その奥にいるであろう「者」に声をかけた。




「スクルー、アベルがイシュトヴァーンに到着するまでの伝票を1つ残さず(・・・・・)検索して」

『了解した、我が主よ』

「うわーっ! スクラクトさん、ストップストップ、ストップー!!」




 アベルの焦った顔に、は思わずニヤリと笑ってしまう。

冗談で言ったのだから、本気で検索などするつもりはもっぱらなかったからだ。




「ま、ここは1つ、大人しく『戦』に挑むしかないわね」

「ううっ、やっぱり助けてくれないんですね」

「無関係な私が助ける理由なんてないはずよ。違う?」

「ご尤もです……」




 しょんぼりとクッキーを頬張るアベルを見ながら、は呆れたように小さくため息をついた。

そしていつものように、彼へ励ましの言葉を投げかける。




「この分で行けば、お昼過ぎには到着しそうだから、報告が終わったら、

2人で公園に行って遅いランチでも取りましょう。サンドイッチぐらいなら、

すぐに出来るし」

「いやっほーい! さんのサンドイッチ、美味しいんですよね〜!」

「その代わり、ちゃんと受けるものは受けるのよ」

「はいはい! さんのサンドイッチのために、頑張って乗りきります〜!」




 頑張る場所が違うような気もしたが、どりあえずアベルの機嫌もよくなったので、

は少し安心してキーボードを弾く速度を少しだけ速めた。

到着までに報告書を書き終えるのが、彼女の習慣だった。




「あ、さん、私、ちょっとお手洗いへ……」

「紅茶のみ過ぎなのよ、アベル……って、私の分も飲んだわね!?

「ええっ! そんなことないですって! ほら、1杯分でしたら残ってますよ!」

「私が1杯で満足するわけないでしょう、この暴飲暴食神父―!!」

「ぐおーっ!!」




 の拳がアベルの腹部に向かって飛んでいき、アベルの体がくの字に折れ曲がる。

お腹に入っているものが表に出そうになるのを押さえながら、

何とか個室の扉のノブへ手を伸ばす。




「そ、そんでは行ってきまふ……」

「はいはい。……ああ、ついでに紅茶買ってきてね。アベルの驕りで

「そんな、無謀なことを言わないで下さいって!!」

「……仕方がないわね。はい、これで買って来てらっしゃい。お釣、使わないでよ!」

「もちろんですよ、さん! それでは、行ってきます〜」

「行ってらっしゃい」




 ふらふらしながら個室を出て行くアベルを、呆れながら見送ったは、

再び電脳情報機の画面を見つめ、キーボードを弾き始めた。

その影で、誰かがくすくすと笑っている声が聞こえ、

は手を止めることなくその声に答えた。




「笑い事じゃないわよ、ステイジア」

『あら、聞こえていたのね』

「聞こえるように笑っているのは、そっちでしょうに」




 窓際に設置されている小さなテーブルの上に光が灯り、そこから白い人のようなものが出現する。

戦闘プログラムサーバ「ステイジア」だ。




「で……、ディートリッヒの足取りは掴めそうなの?」

『いいえ、何も。予想通りの結果よ』




 “薔薇十字騎士団(ローゼンクロイツ・オルデン)”が何の証拠も残さず退散することはいつものことで、

“神のプログラム”と呼ばれている「彼女達」ですらもどうすることも出来ないのは目に見えていた。

……いやむしろ、それが分かっているから証拠を残していかない、

というのも一理あるのかもしれない。




「相手はどれぐらい情報を手に入れているの?」

『「私達」の存在までは明らかにされているけど、それ以上のことはまだ』

「それなら、まだ少し気が楽だわ。……これでよしっと。あとは戻って印刷するだけね」




 報告書を書き終えて、電脳情報機の電源を切ると、

トランクに戻して、座ったまま大きく伸びをした。

しばらくイシュトヴァーンの復旧活動をしていたこともあり、

こんなにのんびり出来るのは久しぶりだ。




「ローマまでまだ長いし、少し眠って行こうかしら」

『そうね。ゆっくり休んでいきなさい。戻ったら戻ったで、サンドイッチ作るのでしょう?』

「ええ。ま、それでアベルが大人しくなるんだったらお安い御用よ」

『そんな、手懐けたように言うと、アベル・ナイトロードが犬みたいだわ』

「あんな犬がいたら、食費が持たないわ」

『確かに、それは言えてるわね。……それじゃ、また』

「『彼』によろしくね」

『了解』




 光が静かに小さくなり、その場からすっと姿を消す。

それを確認すると、は背もたれに寄りかかり、ゆっくりと瞼を閉じた。



ローマに戻ったら、すぐに上司への報告をすまそう。

昼食も作らなくてはならないからだ。

 館へ戻る前に、少し調達をして行こうか。

そんなことを考えながら、はゆっくりと深い眠りへ入っていったのだった。











「お待たせしました〜……って、あれ?」




 紅茶を片手にアベルが戻って来ると、

背もたれにもたれながらがぐっすりと眠っていた。



 相当疲れていたのだろう。

 アベルはそっと紅茶を窓際のテーブルに置くと、
彼女の隣に座り、

 起こさないように手を握りしめた。

するとの体が動き、アベルに寄りかかるかのように、彼の肩に頭を置いた。



 他人にはあまり疲労を見せないだけに、自分の前だけに見せるこの姿が、

アベルにとって何よりも嬉しいことであり、安心する時だった。

それは「関係性」があるからなのかもしれないが、

アベルにはそれ以上のものも感じていたのだった。






「ゆっくりお休み下さい、さん」






 の額にそっと唇をあて、アベルはゆっくりと瞳を閉じると、

 列車に揺られながら、ゆっくりと眠り始めた。






 そして次に目が覚めるは、「天使」にも似た笑顔が、彼の前に飛び込んで来たのだった。






「アベル、見える? もうじきローマよ」











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