「すみません、さん」




 部屋に戻るなり、アベルの口から漏れた言葉に、

は疲れきったかのように彼が横になっているベッドに腰掛けた。




「私がこんなことになったために、あなたに余計な負担をかけてしまって……」

「本当よ。これは、相当大きな借りになりそうね」

「そうですね……」




 どうやら、エステルの部屋でのことを全て把握しているらしく、

アベルは疲れきったの手を強く握って苦笑した。

そんなアベルに、はただため息をつくだけだった。




「体の具合はどう?」

さんが応急処置をしてくれたお蔭で、少し楽になりました」

「あれだけじゃ足らないでしょう? もっと作るわ」




 ゆっくりと手を離して立ち上がると、近くにあるグラスを1つ取り、バスルームへ向かう。

水をグラス一杯に注いで戻って来ると、バスルームから出て再びベッドに座り、

コップをサイドテーブルの上に置いた。




「本当は原液(・・)を与えたいけど、あなたのことだから、きっと拒否するでしょうね」

「ええ。そんなことしたら、さんが立っていられなくなりますよ」




 近くにある果物ナイフを掴むと、左人差し指の先端を少しだけ切る。

そこから浮き出た赤い液体を、グラスの中に少しずつ落としていった。



 約1分弱すると、は指をグラスから離し、切った部分を軽く親指で擦った。

再び開けば、切り口がすっかりなくなっていて、

同じ手で、赤く染まっている水が入ったグラスを取り、軽く左右に揺すった。

赤い水がどんどん浄化して、透明に戻っていくのがよく分かる。




「これで、明日1日は持つわ。無理しなければの話だけどね」

「ありがとうございます、さん」




 に助けられながら、ゆっくりと上半身を起こすと、

アベルは彼女からグラスを受け取り、ゆっくり喉に通していった。

味は普通の水と同じなため、特に抵抗することなく体内に吸収されていく。




「それにしても、これからどうしたらいいのかしら? 一応、着替えはヴォルファーから転送しても

らったからいいもの、カテリーナとも連絡を取らないといけないし」

「連絡は、むやみにしない方がいいかもしれません。電波を監置して、異端審問局が襲いかかってくるかも

しれません」

「それは言えてる。いくらザグリーでも、こうなるとどうしようも出来ないのよね」

『悪いな、我が主よ』

「そんな、謝ることじゃないから安心して」




 部屋の片隅に干してある僧服を見ながら、

は耳元から聞こえる交信・音声プログラム「ザイン」を宥める。

主に仕えるプログラムが、肝心な時に役に立たないことが申し訳ないようだ。




「私も出来る限り外の様子を見廻るつもりですし、その時にでも、何か手段を考えてみます」

「見廻るって、何冗談言っているのよ? その体で、どうやって見廻りに行くって言うの?」

さんのお蔭で、短時間なら出歩くことは出来ます。それに、私がここにじっとしていたら、

エステルさんに不審に思わてしまいます」

「だったら、ちゃんと完治させて……」

「だからそうすると、あなたが動けなくなるじゃないですか」




 さっきから、何度も続けている会話ではあるが、お互いにお互いの意見を変えようとしなかった。

むしろ先ほどより、それは強くなってきているようにも思える。




「私は動けなくなってもいいの。そのためにいるってこと、忘れてもらったら困るわ」

さんが動けない間に、異端審問局が来たらどうするんですか? それに、動けなくなった姿を見たエステルさんが、

また不審に思われますよ」

「動けなくなるって言っても、ほんの数時間のことよ? それに、全く動けなくなるわけじゃないんだから心配ないわ」

「だとしても、私はあなたに無理をして欲しくありません。どうして分かってくれないんですか?」

「分かってくれないのは、そっちの方じゃない」




 お互いの口調がどんどん強くなっていく。

 しかしそれでも、2人は口論を止めようとはしなかった。




「私はあなたの“フローリスト”で、あなたを護らなくてはいけない者なの。主が重症を負っているのに、

放っておけるわけないでしょう?」

「言っていることは分かります。けど、今はその時じゃないって言っているんです。無事、メンフィス伯を

カテリーナさんのところへお連れしてからでも遅くはありません」

「その間に、『あいつら』が暴走したらどうするのよ? それこそ、大問題よ」

「それは今、処置してくれたじゃないですか」

「それだけじゃ足らないから言っているの」




 言えば言うほど、お互いにお互いの意見を押し続けていく。

こんなことをしても切りがないことぐらい分かっているのだが、

すぐに止めることなど出来なかった。




「ああ、もうこの話は止めましょう。言っても言っても、お互いの意見をぶつけるだけで、前に進みやしないわ」

「……分かりました」




 結局、が無理やり中断させ、指をパチンと鳴らした。

すると、先ほどアベルが飲んだ水が入ったグラスに、茶色の液体が溢れ出し、グラスを満タンにしていった。

それを一気に口に煽ると、は大きくため息をついた。




「そう言えば、エステルと別れたカフェでの交信の時、何か言いかけたわよね。あれって一体、何だったの?」

「それでしたら、あのケープの中に入ってます。――ちょっと濡れてしまいましたけど」

「まぁ、それは仕方ないわ。見てもいい?」

「ええ。むしろ私より、さんの方がすぐに理解出来るものですから」




 最後の言葉の意味が分からなかったが、物を見れば理解することだろうと思い、

は窓際に干している濡れたアベルのケープを漁り始めた。

中から姿を現したのは、1枚の紙だった。

それを破れないように広げると、の目が大きく見開いた。




「こ、これは……!」

「ボッロミーニの私物に紛れていた地下水路図です」




 アベルの言葉を聞きながら、は近くにある小ぶりのテーブルの上にその紙を載せ、

それごとアベルのベッドの横へと持って来た。

ベッドに座り直し、目の前に広がる水路図にくまなく目を通す。




「これは、あなたが作ったものですか?」

「いいえ、違うわ。それに、もうあれは残っていないもの。……ん?」




 アベルの質問に答えながら、はある1点に目が向いた。

そこは、遥か昔にカルタゴを救ったと言われる聖エリッサの墓である“女王の墓所(カブラル・エリッサ)”である。




「……気づきましたね?」

「ええ。確かここは、エリッサの死後に物理的に封鎖されていたはずよ。なのに、

どうして水路がここまで入っているの?」

「私も疑問に思ったんです。で、昔、少しだけ地下水路図を描かれたことがあるさんなら、

その理由が分かるんじゃないかと思ったのですが……、その様子だと分からないみたいですね」

「ええ。私が描いたのが昔すぎるから、というのもあるけどね。ステイジア、“ドライ”って出せたかしら?」

『大丈夫よ』




 耳元から聞こえた声と同時に、

テーブルに載っている水路図に湿っていた水分が蒸発され、徐々に乾いていく。

そして数分もしないうちに、それは元の紙へと戻っていき、

は丁寧に折り畳みなおし、アベルに返した。



 の脳裏に何かが横切ったのは、その時だった。




「……もしかして、なんだけど」




 彼女の口調は、どことなく慎重になっているように聞こえる。




「ボッロミーニは、『あれ』を修理していたのかも、というのは考えられないかしら?」

「『あれ』?」




 アベルが一瞬顔を顰めたが、それは一瞬のうちに元に戻り、思い浮かんだことをに聞く。




「『あれ』って、まさか、あのことですか?」

「ええ。……まあ、あくまでも仮説だけど。それに出来れば、触れて欲しくないものでもあるし」

さんは、最初反対なさっていたようですしね。……でも大丈夫ですよ。『あれ』は動かない

ように封印したはずですから」

「確かに、そうなんだけど……」




 「封印」と言っても、その作業をしたのはではなく、

当時カルタゴに籍を置いていた者が施したものであり、その重度がどれほどまでかは分かっていない。

出来ることなら自分の手で行いたかったことだったが、

他の件で手が離せなかったため、他人に委ねるしかなかったのだった。



 不安な表情を見せるの顔が、いつの間にかアベルの肩に埋もれていた。

頭に置かれた彼の手が、慰めるようにの髪を撫でる。




さんは、何も心配することなんてありません。私がちゃんと、ついていますから」

「……怪我人が言う台詞じゃないわよ、それ」

「確かに、そうですけどね」




 アベルの気持ちは嬉しいが、この状況でよくそんなことが言えると少しだけ腹が立った。

だがここで、また話題を彫り返すわけにはいかないと思い、

そのことを無理やり押さえ込んだ。



 あんなに大きな怪我をして、本当は自分がアベルを支えなければいけないのに、

逆に支えられている今の自分がはっきり言って嫌だった。

しかし、だからと言ってすぐにここから離れられるかと言ったらそういうわけにもいかず、

はただ彼に自分の身を委ねるだけだった。



 気がつけば、目が閉ざされていて、両腕がアベルの体に絡みつき、

痛みが走らない程度に強く抱きしめていた。

時折アベルが、の髪にそっと唇を当て、彼女もそれを返すかのように、

彼のうなじにそっと唇を押し当てた。






 言葉などいらない。

ただこのまま、抱きしめてくれればいい。

 そう思いながら、はアベルの温もりを感じ続けていた。




 だがそれも、長くは続かなかった。











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