その声は、間違いなくエステルのものだった。

だが、台所からは何も聞こえなかった。

となると、理由は1つしかない。




「メンフィス伯、私もちょっと、台所で何か適当に作って参りますわ。少しでもお腹に収めておかなくては、

治るものも治らなくなってしまいますから」




 そう言ってその場に立ち上がって一礼すると、は台所まで足を運んだ。

そしてその片隅から聞こえる声に耳を済ました。

目を閉じれば、今のエステルとアベルの状況が簡単に読み取ることが出来る。




「仕方ありませんよ、エステルさん。我々は万全をつくしました。出来なかったことを

悔やんでも仕方ありません」

万全を尽くした(・・・・・・・)? 神父さま、本当にあなたはそうおっしゃられるんですか?」




 やはり、エステルはまだアベルを疑っている。

そして今までのこともあってか、爆発でもしたかのように言い放った。




「万全だなんて、あなたは尽くしちゃいない! だって、あなたはいつも力を出し惜しみして

いるしてるんだもの!」

「エステルさん、私、手抜きなんてしちゃいませんよ」

「嘘! じゃあ、どうしてあれを……、イシュトヴァーンのあれ(・・)をやってくださらないんですか!」




 アベルの顔色が異常なまでに悪くなっていることに気づかず、

エステルは彼の胸を掴んだ手を揺すった。

それが見ていられなくなったが一気に台所に入っていく。




「あなたが本気になってくだされば、もっと物事はうまくいってましたわ! 

あの子だってあんな危ない目に遭わずに済んだでしょう! それを……」




 エステルの揺さぶられたアベルは、ただ暗い顔で唇を軽く結んでいるだけで、

それが相手の癇に障った。

さらに視線に力を込めて、言葉を発しようとした時――。



 軽い音と共に、右頬に鋭い痛みが走ったのだった。




「……いい加減にしなさい、エステル」




 視線を戻した先にいた僧衣を身に纏った尼僧が起こした行動が、エステルには理解出来なかった。

それでもは気にせず、相手に向かって鋭い視線を向けていた。

それを見ていたアベルが、行動の意図が掴めず慌てている。




さん、あなたって人は、急に何をするんですか!?」

「あなたは黙ってなさい、アベル」




 しかし、はその問いに答えようとはしなかった。




「……エステル、あなたにアベルの、何が分かると言うの? 一度『あの姿』を見ているからと言って、

何もかも分かったかのように言うのはやめなさい」

「それじゃ、さんは分かるんですか!? ナイトロード神父のこと、何でも分かるとおっしゃるんですか!?」

「分かるわ。私は彼がどんな気持ちでいて、どんな風に感じているのか分かる」

「どうして!」

「彼と私は……、『繋がっている』からよ」




 意味不明な回答に、エステルが困惑した表情を見せ、さらに問い質そうとする。

しかしそれを中断するように、後方から恐る恐ると言った調子の声がかかった。




「あノ……、エステル?」

「ど、どうしました、閣下?」




 声が聞こえた方向へ目を向けると、そこには先ほどまでベッドで黙考していたイオンの姿があった。




「その、話している最中に、ちとすまぬガ……、外におかしな連中がいル。……どうも様子が変なのじゃガ」

「え?」




 イオンの言葉を受けて、その場にいた3人がそれまでのいざ諍いのことも忘れて

窓の下を覗き込むと、そこにはいたのは――。




「「「……特警!」」」




見なれた格好をした団体が、宿の主人に探し人の居場所を聞き出しているところだった。




「閣下、服を着てください!」




 エステルが鋭い声でイオンに命じると、アベルとは廊下に出て気配を探り始めた。

外を見れば、宿の裏まで黒い野戦服の男達が出回っているように見うけられた。




さん、例の鍵は出来あがってますか?」

「ええ、大丈夫よ。――これで」

「ありがとうございます。今度『彼』に、お礼を言っておいて下さい」




 その前に、「彼」は間違いなく、アベルの体の様子を気遣うだろう、とは思った。

だが今はそれどころではない。

一刻も早く、この場から離れなくてはならないからだ。



 向かいの部屋のノブに鍵を差し込んで解除すると、扉を開けて中へ入り込む。

脱出ルートを事前に準備していたこともあり、ここまでは順調に進んでいた。



アベルが窓を外すと、そのすぐ下に隣家の屋根が迫っている。

特警に見つからないようにが先に下りて、状況を確認した。

相手の制服がちらちら見えるが、屋根伝いにぐるっと回れば、

何とかうまく逃げ切れそうだ。




「こっちは大丈夫よ、アベル!」

「分かりました。――お2人とも早く!」

「じゃあ、あたしから参ります」

「急いで下さい、エステルさん! 連中、もうそこまで来てます」

「分かってますわ!」




 ふとアベルと目が合った時、エステルが何か言いたそうだったが、

相手に急かされて、その機会を失ってしまった。

今は、そんなことをしている場合ではない、ということなのであろう。



 下りたエステルの手をしっかり取ると、は彼女を自分の後方へ移動させ、

次に下りて来たイオンの手を取り、エステルに託した。




「エステル。あなたはメンフィス伯と一緒に先に行って。すぐに追いかけるから」

「はい。閣下、行きましょう」

「あア。……そなたと神父モ、急いで来るのだゾ」

「承知致しましたわ、メンフィス伯」




2人の姿を見送ると、は何かに気がつき、

急いで振り返ると、最後に下りて来たアベルの手をしっかりと握った。

一瞬、態勢を崩しそうになったからだ。




「大丈夫なの、アベル? 顔、真っ青よ」

「心配しないで下さい、さん。……それより、すぐにケイトさんに連絡を取って下さい。

居場所が見つかってしまった今なら、通信機を使っても問題はないはずです」

「でも、あなたは……」

「私のことは心配いりません。だから……」




 そこまでで、言葉は無情にも途切れてしまった。それもそのはず。

がアベルの手を強引に引っ張って、エステルとイオンが逃げている方向へ

一緒に移動しているからだ。




さん!?」

「逃げながらでも、ケイトには連絡が取れるでしょ? 急いでエステルとメンフィス伯

のところへ行きましょう!」




 の言っていることは間違ってはいないが、

アベルとしては、すぐにケイトと合流することを伝えたかったのだ。

だがこの場合、そんな彼の考えは即行却下されたようだった。



 しばらく走ると、エステルとイオンが屋根を下りて、

教皇庁御用達の無装甲偵察車“メルカバ”に乗り込んでいるところだった。

それを見つけたが、アベルの腕を自分の肩にかけて、

軽くジャンプをするかのように路上へ降り立った。




「うっ……!」

「ごめんなさい、アベル! 今のだけは許して!」




 着地した衝撃で、胸元が一瞬辛かったのだろう。

アベルの口から漏れた声に、は一瞬、申し訳ないように顔を少し顰めた。

そしてエステルとイオンが乗っている無装甲偵察車に向かって走り出す。

もちろん、彼らに気づかれないように、肩に乗っていたアベルの腕を下ろしてある。




「エステル、運転は出来る?」

「はい、大丈夫です」

「よし。アベル、急いで乗って。エステル、あなたは2人を乗せて逃げなさい。私は後ろから、

単車で追っかけるわ」

「単車って、どこかにあるんですか?」

「適当に拾って乗っていくわよ」




 現にこの場には、宿に宿泊している者が利用しているらしい何台もの自動二輪車(モーター・サイクル)が止まっていた。

盗み乗りは違反行為だが、かと言うエステルも異端審問局の私物を拝借してしまっているため、

反論することが出来なかった。




「さ、早く行きなさい! 私のことは大丈夫だから!」

「あ、はい!」




 扉を勢いよく閉めると、エステルがそれに反応してハンドルを切り始めた。

それと同時に一気に走り出したもの、まるで暴走でもしているかのごとく走る姿に、

は背中に嫌な汗を感じざるを得なかった。




(……本当に任せて、よかったかしら?)




 後悔しても、今となっては遅すぎる。

は額に浮かび上がった汗を拭うかのように手を当ててから、黒十字のピアスを弾くと、

それに反応して、彼女の横に1台の自動二輪車(モーター・サイクル)が姿を現した。




「ありがとう、ヴォルファー。手間が省けたわ」

『当然だって。“アイアンメイデン”と連絡を取るんでしょ? ザインがすぐに繋げてくれるって』

「それは助かるわ」




 自動二輪車(モーター・サイクル)に跨ると、すぐにエンジンをかけて、メルカバを追いかけ始める。

相変わらず、ガタガタと揺れるように動く前方の偵察車に、

は思わず苦笑してしまった。




「エステルって、車輛捜査過程の成績ってどうだったの?」

『教官から、車両運転は、よほどのことがない限り他の者にまかせるように忠告されていたらしい』

「そうだったのねえ……。はあ、もう少し早く気づくんだったわ」




 そうすれば、自分が運転すれば言いだけだった話なだけに、は思わずため息をついてしまった。

が、その後悔は耳元から聞こえた声によって途切れたのだった。




さん! ご無事でしたの!?>




 通信プログラム「ザイン」の応答を受けたケイトの声が届けられたのだ。




「ええ、何とかね。約1名重傷なのがいるけど、相変わらず強がってばかりで手におえないわ」

<約1名って……、まさかアベルさん、怪我されてるんですか!?>

「その、『まさか』よ。とにかく、治療用具の準備をしておいて欲しいの。私だけでも治せるけど、

どうやら彼、私が自分のために体力を消耗させるのを望んでいないみたいだからね」




 これでは、何の為に繋がっているのか分からないと、は心の中で愚痴を零した。

相手の気持ちは嬉しいが、それでは自分がここにいる意味がなくなってしまう。

がここにいるのは、アベルの存在があるからで、

彼がいなかったら、自分は「あの時」、命を落とそうとしていた。






『俺には、お前が必要なんだ。失いたくないんだ』






「……あの言葉は嘘だったの、アベル?」

<え? 何かおっしゃいましたか?>

「いいえ、こっちの話よ、ケイト。気にしないで」




 昔のことがふと横切り、それを打ち消すかのように首を左右に振る。

そして目の前を走る制札車に映る背中を、じっと見つめていた。




「とにかく、行き先からして、海岸沿いに向かっているっぽいから、そこまで迎えに来て欲しいの。

メンフィス伯は、怪我がまだ完治してないけど、無事だから、心配しないで……」




 言葉がここで途切れたのは、後方から何やら物騒な音を立てて接近してくるものに反応したからだ。

サイドミラー越しから見えるそれは、大型トラックほどある六輪重装甲車だった。




(何つうものを用意してるのよ、こいつらはー!!)




 突然登場した物体に、思わず声を張り上げてしまったが、

交信相手に気づかれないように必死に押し殺した。

きっと前方を走っている面々も同じような心境に立たされているに違いない。




『応答を要請する、シスター・

「その声は……、トレス! あなた、まさかケイトと一緒にいるの!?」

肯定(ポジティブ)。現在、卿らを捜索するために“アイアンメイデンU”に乗船している』




 突然聞こえて来た第2の声に、は歓喜の声を上げた。

しかし、彼の目は未だ見えないままである。




「けどトレス、あなた、まだ目が見えてないはずよ。かえって危険なんじゃ……」

『救出作戦が強行された場合に備えて、戦術プランを1つ準備しておいた。光学系センサーがなくても遂行可能だ』

「なら、いいんだけど……。まあ、とにかく、ケイトにも言ったけど、すぐに海岸沿いに向かって。

こっちも何とかして、そこまで行くから」

『了解した』




 相手の返答を聞いて、は黒十字を軽く弾くと、

ハンドルをしっかり握って、前方を走る偵察車に接近した。

後ろの六輪重装甲車から少しでも離れようとしたからだ。




「アベル、海岸の方へ向かって走るようにエステルに伝えて! ケイトとトレスと合流するわ」

(分かりました、さん。……それよりエステルさん、運転が乱暴過ぎです)

「まあそのことは、あとで私の方からも伝えておくわ」






 苦しそうに言うアベルの声を聞き、

 は苦笑せずにはいられなくなってしまっていた。











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