にとっては、今、展開されている事柄は珍しくも何もなかった。

ただ、出来れば見たくなかっただけだった。



 しかし、その場にいる者にとっては、それはとてつもなく恐ろしいものだった。




「な、何だ、あれは……!?」




 契れた僧衣の背中から毀れた漆黒の翼を持ったそれが、ゆっくりと立ち上がると、

ラドゥの喉がぐびりと動く。

まるで、何かに怯えているようだ。



 無表情に炎を一瞥し、すぐに興味なさげに視線を石畳に落とされる。

アメーバのように動くイオンの血が、彼を中心に渦を巻いているのだ。




(こんな回復方法、いつ許したと言うのよ……)




 目の前に映し出されている光景――羽をしおれるように血溜まりに浸し、

まるで吸い取り紙を浸したインクのように吸い上げられていくのを見ながら、

は心の中で呟いた。

こうならないために治療をしようと奨めたのだからなおさらである。




(何とかしなくては……)




 胸の激痛は、相手が悪魔の呪文を唱えたのと同時に解除されていた。

あれは、あくまでも「報告」でしかなかったらしい。



は何の苦もなくその場から立ち上がり、体勢を整える。

それと同時に、何かがドサリと落ちる音がした。

その方向へ目を向けると、ラドゥに捕われていたエステルが放り捨てられていたのだった。




「エステル……!」




 “加速(ヘイスト)”状態になったラドゥを見つめながら、は地面を軽く蹴った。

その勢いでエステルのもとへかけつけると、すぐに彼女の身の安全を確認し始めた。




「エステル、大丈夫! 怪我は!?」

「はい、何とか。……それより、ナイトロード神父は……」

「彼のことは私に任せて、あなたはすぐにメンフィス伯の身柄を確保して。……これ以上の

被害は避けたいから」

「……分かりました」




 一瞬、がつらそうな表情を見せたと思ったが、それは気のせいだったらしい。

世にも珍しいアースカラーの瞳が、鋭く輝いていたからだ。



 エステルが少し慌てたように立ち上がり、メルカバの近くで気絶しているイオンのもとへ向かう。

それを確認したのと、何者かの声が脳裏に響き渡ったのはほぼ同時だった。






 オ前/我々ノ/餌ダ






 すぐに反応し、視線を移動させた先にいるのは、

おびえた顔をしたまましゃがみ込んでいるラドゥと、

それを見下ろしている漆黒を持った1つの影だった。






 我々/コレカラ/オ前ヲ喰ウ






「……やめなさい、“02”!!」




 言葉の意味を理解したが駆け出そうとしたが、

夜そのものが砕ける轟音とともに、ゴリアテから戦車砲が放たれたため、

足が止まってしまった。




「し、神父さま!」




 エステルが悲鳴を上げたのも、ラドゥがそんな彼女の姿とゴリアテを余裕などなかった。

銀髪の神父だったそれ(・・)の左胸から左肩までがきれいに紛失していたからだ。




…………




 戦車砲の直撃を受けた真っ赤な肉片が散らばり、赤い目がゆっくりと自分の傷を見る。

その地面に散らばった血が音をたてて泡立ち始めたのはその直後のことだ。

いや、泡立ち始めたのではなく、砂粒ほどの牙を生やした無数の爪ほどの小さな口だった。




「駄目……」




 この状況にいち早く察知したのは、それの存在をよく知っているだった。




「駄目よ、エステル……。見ては駄目!!




 急いで声を張り上げたのだが、遅すぎた。

エステルの目の前には、このおぞましい景色がしっかりと焼き付いていくのが手に取るように分かる。

瞬きすることすら忘れてしまっていることから、それがひしひしと伝わってきていた。




(……こうなったら、仕方がない……)




 は左手の短機関銃(サブ・マシンガン)を懐へ納め、右手の短機関銃(サブ・マシンガン)のレバーを手前まで引いた。

そして引き金を引くと、自分の腹部に向かって撃ち込んだのだった。



 大量の出血を起こしながら、体がゆっくりと地面に倒れていく。

だがそれと同時に、周りに何かが集まり出し、彼女の体を覆い始めたのだった。



 それは紛れもなく、地面に残っていた、赤く染まったイオンの血だ。

それだけではない。

周りに倒れている特務警察(カタビニエリ)、つまり、短生種(テラン)の血も混ざっていた。




「な、何をしようとしている、卿……!」




 ラドゥが言葉を発しようとしたのと同時に、一瞬、世界が青く漂白された。

漆黒の翼を持つ怪物が、電光を貯めた大鎌を、ゴリアテに向かって振り下ろしたのだった。

電撃を直撃された50トンを超える鋼の塊が紙細工のように引き裂かれ、

四散していく。






 次は、私が殺される番だ――。

 そう、ラドゥが悟った時。






 耳の届くか届かないぐらいの小さな声が、静かに響き渡ったのだった。








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