こいつは私を殺す――。
じっと自分を見下ろした漆黒の翼の赤い瞳を前に、ラドゥがその運命を受け入れようとする。
そしてそれを確認するかのように、大鎌がゆっくりと振り下ろされる――。
「…………!」
だが、鋭い痛みは一向に起こることなく、ラドゥは不審げに瞼をゆっくりと持ち上げた。
そして、すぐ目の前に立っている人物に、塞がっていた口がぽかりと開いた。
「い、一体これは、何なんだ……!」
ラドゥの目に真っ先に飛び込んだのは、
自分を殺そうとした怪物とは全く正反対の色をした大きな純白の翼だった。
そしてその翼の持ち主が身に纏っているのは、相手と同じ黒の僧衣だった。
「まさか……、まさか、卿なのか……!?」
ゆっくり後退しながら、何とかして今起こったことを把握しようとする。
少しだけ体を左側に移動すると、2つの大きな物が交わっているように見えた。
1つは、漆黒の翼を持つ者がラドゥを殺すために振り翳した大鎌。
もう1つは、純白の翼を持つ者がその攻撃を阻止するために振り翳した銀の大剣だった。
一体、何が起ころうとしているのか?
その場の状況を、誰も理解することは出来なかった。
当の本人達以外は――。
「……やめろ、主よ」
純白の翼を持つ赤い目が、同じ赤い目を持つ漆黒の翼を持つ者に向かって言葉を発する。
その声は、誰もが知っている声とは違い、低く、地面に響くようなものだった。
「これ以上動いたところで、主にとっていい結果など生まぬ」
ぽたりと、どこからともなく音がして、地面が赤く染まっていく。
大鎌を押す力が増したのと同時に、押された大剣が持ち主の右手に当たり、
そこから血が流れ出しているのだ。
が、地面に落ちた血は、何かに引かれるかのようにして、
漆黒の翼を持つ者の足元に集まり、体内へ吸収されていく。
それに反応するかのように、2つの体がそれぞれ後方へと移動したのだった。
漆黒の翼を持つ者が、体内に入っていく血によって苦しみ始め、身を丸める。
一方、純白の翼を持つ者の右腕からは、知らない間に出血箇所が分からなくなっていた。
苦しみに耐えるかのごとく、漆黒の翼に再び青白い電光が走り、大鎌に収束する。
それに答えるかのごとく、相手は自分が持つ大剣に月の光を集めるかのようにして構えた。
だが、2人は構えただけで、放たれることはなかった。
ある1つの、小さな声が耳に届いたからだ。
「ば、化け物……」
気絶したイオンを抱えたエステルの声が、2つの影の動きを止めたのだ。
「……あなた達は、一体何なの?」
瞬きすることすら忘れてしまったかのように見つめられた目が、
恐怖に染まっているのは一目瞭然だった。
そしてそれは、神以外はなしえぬはずの変化を呼び起こす。
「ア……」
漆黒の翼を持つそれが、初めて口を開いたのだ。
「チ、違ウ……、違ウ……、俺ハ……」
「ひっ……!」
ラドゥと純白の翼を持つそれから離れ、エステルに近づいていく。
だが、その様子を見たエステルは、少年の体を抱えたまま後ずさった。
拒否をするかのように、首ががくがくと左右に振っている。
「や、やめて……、来ないで! 来ないで、お願い!」
「ア……、オ……」
何かと激しく戦っているように揺れる瞳に、背中の翼が反応してか、
枯れた黒薔薇の花弁のようにみるみる萎れて行く。
その様子を、純白の翼を持つ者は特に変わった様子もなく見つめていた。
いや、何かを感じていたのだが、それはこれとは全く違うことだった。
上空から、何かが迫ってきている――。
「え、えすテるサン、俺……、ワタシは、私は……」
「ひっ!」
それの鉤爪の生えた手が、エステルの頬に伸びてきたため、
彼女は心臓がつぶれたような悲鳴を上げて身を縮めた。
鉄よりも固く、鋭い感触が、涙に汚れた頬に触れた時、後方から何者かが手を翳したような気配を感じ、
それと同時に、エステルの全身から力が抜けたかのようにくたりと体が折れた。
振り返れば、自分と同じような姿の者がゆっくりと手を下ろし、
何かを訴えるかのような視線を送っている。
その意味を理解したのか、それともその行動が理解出来なかったのか、
それは視線を戻して跪き、許しを請うようにエステルの方を揺り動かした。
「エ、エステるさン……、エステルさン、私ハ……」
「……来るぞ」
母にすがる子供のように、なおもそれが少女を揺すった時、
後方から何かを予告するかのような声が上がった。
そして敵中するかのように、空気が避けていった。
「……つ!」
エステルとイオンを庇うように、漆黒の翼を広げる。
そして上空に映し出された2つの巨大な影に、奇跡的に生き残っていた特警が悲鳴を挙げた。
「ア、“アクラシエル”! “ルファエル”! ま、まさか、こいつらまで……!」
全長200メートルを超えようかという、“天使を裁く天使”の名をいただく、
電動知性制御式の最新鋭空中戦艦から、30ミリ機関砲弾の群れが、毎秒50発の勢いで放たれる。
空気が悲鳴をあげ、熱い鉛が大地に落ち、
停泊中だった船舶の誘爆と生き残っていた特警の絶叫が鳴り響く。
「まずい……」
エステルとイオンを、背に持つ漆黒の翼でふせいだそれが唇を噛む。
だが近くで、何かが光り出しているのに気づくと、純白の翼を持つそれに視線を向けた。
上空から機関砲弾が、まるでそれを避けるようにして降り注いでいる。
「……!」
「汝は2人を護れ。……こいつらは我がやる」
まるで月光を吸収しているかのように、純白の翼のそれが持つ銀の大剣が光り出していく。
それがある程度の量に達したのと同時に、今まさに漆黒の翼のそれに舷側砲を向きを変えた
“アクラシエル”に向かって振り下ろされた。
機関砲弾には耐えることが出来ても、あれほどの大口径砲には対応できないことを承知していたからか、
それともただの偶然だったか、“アクラシエル”舷側砲を投じることなく轟音と爆煙と共に海に落下していった。
しかし、攻撃をしかけたそれの表情は芳しくなかった。
光の量からして、1隻落とせるほどの勢力を持ち合わせていなかったからだ。
では、一体誰が?
そんな疑問が生まれたが、エステルとイオンを抱えるそれ
――アベルが目を細めながらも顔をもたげて見つめる先を見たのと同時に解明した。
「あれは……」
「どうやら、気づいてくれたみたいだな」
2隻の空中戦艦をさらに凌駕する巨大な影に、アベルと純白の翼を持つそれ
――は釘づけになっていた。それと同時に、自分達が助かったのを確信した。
「“アイアンメイデンU”……、ケイトさん!」
アベルの声が合図になったかのように、純白の空中戦艦から閃いた光が
“ルファエル”を容赦なく串刺しにしていく。
その間に地上では、がアベルの元へ軽く跳躍を突けて舞い降りていた。
「無事か、主よ?」
「私は平気です。それより……」
抱えている2人――正確には白の尼僧服を来ている少女だが――を見つめる姿はどことなく苦しそうで、
見ているこちらまで辛くなりそうだ。
「……今は落ちこんでいる暇なんてないわ、アベル」
いつの間にか、の背にある2つの翼はなくなり、声のトーンも元に戻っていていた。
だがそこには、優しさなどにじんも感じられなかった。
そこに感じられたのは、最悪な結果を真似イでしまったことに対する憎悪と、そしてその悲しみだけだった。
「とにかく、先に2人を“アイアンメイデンU”に乗せてから、負傷者を救出するわよ。言い訳をするのは、
それからにしなさい。……ステイジア、“ウォリア”を!」
『了解』
の命令に従うかのよう荷、目の前に大きな水の塊が出現すると、
炎によって赤く染まる箇所に向かって飛んでいく。
それを確認すると、はアベルが抱えているエステルを自分の方へ移動させ、
気づかせないようにそっと抱え込んだ。
「アベル、メンフィス伯の傷が開かないように動かすのよ。いいわね」
「……分かりました」
まだ何か突っかかっているような声なのが気になったが、
今はそれどころではないことを、は理解していた。
それを現すかのように、
彼女の足は着陸した“アイアンメイデンU”に向かって走り出していたのだった。
乗船する前に振り返って見た映像を、はすぐに忘れることが出来なかった。
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