負傷者を収容し終え、“アイアンメイデンU”がようやく港を離れた時、

は船内に所有されているシャワールームで体についた埃などを取り払っていた。

少しでもいいから休んで欲しいというケイトの計らいだった。



 空から降り注ぐ人口の雨の中で、はふと両手を見つめた。

そして脳裏に、ある言葉が蘇ってきた。






『ば、化け物……!』






 もう、聞き慣れた言葉だと思っていた。

聞き慣れすぎて、抵抗も何も感じないと思っていた。

なのに今、こうして頭の中でぐるぐる回っている。

理由が何も、見つからない。




「……馬鹿みたい」




 強く握り締めた両手から、うっすらと赤いものが流れ出す。

それが水と同化して、下に落ちていく。




「こんなこと考えるなんて、馬鹿馬鹿しすぎる。もう、どうでもいいことなのに」




 そう、そんなことなんて、どうでもいいのだ。

こんなことを考えている暇があったら、今後の行動について作戦を練った方がいい。

はそう思い、掌を開いて、空から降る雨に当てた。

数本の赤い線が、水に触れたことでゆっくりと消えていき、

シャワーの蛇口を閉めた時には、跡形なくきれいに消えていた。



 バスタオルで体を拭き、新しい黒の僧服に身を包むと、

長い髪をタオルを使ってまとめてバスルームを出て、用意された休憩室のベッドに勢いよく腰を下ろした。

さっきまでの緊迫した雰囲気から解放され、少しだけ落ちつきを取り戻しているようだった。



 濡れた髪を解いて、近くにあるドライヤーで一気に乾かすと、

は黒いリボンと白いグローブ、ケープを手にして、部屋を出た。

もうじきブリッジで、ミーティングが始まるからだ。



 だが、すぐにブリッジに向かうことなく、の足はある1つの休憩室の前で止まった。

そこは、先ほどまで共にいた同僚が休んでいる部屋だった。



 一旦そこから視線を動かし、その先にある1つの扉に移動する。

そこにいるのは、目の前にいる同僚と自分の姿に恐怖して気を失った――がそうさせたのだが――尼僧が、

今も静かに眠っていた。

そして再び視線を戻した後、は1つため息を漏らした。



 彼はきっと、自分以上に彼女の言葉を気にしているに決まっている。

そして彼女を傷つけてしまったことに、深い罪悪感を感じているに違いない。




「アベル、支度、し終わったの?」




 いつの間にか、の手は扉のノブを掴んでいて、ゆっくりと中の様子を伺っていた。

相手はシャワーを浴び終わってはいるが、

髪はまだ濡れたままで、眼鏡もかけず、肩にタオルをかけたまま、

ベッドに腰を下ろしていた。




「まだ終わってなかったの? 全く、相変わらず鈍いんだから……」




 ため息をつきながら、は手にしていた物をベッドテーブルの上に置くと、

近くにあるドライヤーに手を伸ばすと、アベルの後方へ回るようにベッドに乗り、髪を乾かし始めた。

特に手入れをしているわけもないのに、銀髪の髪は真っ直ぐしているあたりが、

女性であるにとっては羨ましく感じてしまう。




「本当は栄養不足なはずなのに、どうしてこう、あなたの髪はさらさらなのかしらね?」




 そんな疑問に、アベルは答えることなどなかった。

別に教えて欲しいわけでもなかったので、自身もあまり気にしてはいなかったが。



 数分後、髪は無事に乾き、ドライヤーの電源を切ると、

はサイドテーブルに置いた自分用の黒いリボンを取り、アベルの髪を1つに縛った。




「はい、これで完了。さ、早く行くわ……」




 ベッドから下りて、アベルの手を引こうとしたが、逆に手を捕まれ、そのまま引っ張られてしまった。

そして彼の胸元にいることに気がつくのに、そう時間はかからなかった。




さんは……、平気なのですか?」




 上から聞こえる声に、は自分の体が、一瞬ぴくりと動いたのが分かった。




「あなたは彼女に……、エステルさんにあんなこと言われて、平気なのですか?」




 「あんなこと」。

そう、「あんなこと」を言われたのに、平然としていられるのはおかしい。

もっと動揺してもいいのではないか。アベルはの行動や態度を不審に思っていたのだ。




「……仕方ないわよ」




 ぽつりと呟く声は、どことなく悲しそうで、それでいて淋しそうにも聞こえた。




「私はあなたよりも前から、『化け物』だったんだもの。それに慣れてしまっているんだから、仕方ないじゃない」






『プログラムなんかと一緒にいる奴なんて、人間なんかじゃねえよ!』

『そうだそうだ! この場からいなくなっちまえ!!』






「……だから、今更傷つくなんて、遅すぎるのよ……」




 終始プログラムと共に過ごし、プログラムと共に生き続けて来たは、

他人からして見れば「化け物」同然だった。

そんな彼女を人間として扱ってくれた者など、1人もいなかった。



 ……いや、1人は存在していた。彼女を同じ人間として扱っていた人物が……。




「……すみません、さん」




 突然の謝罪の言葉に、は驚いて、アベルの胸元から顔を離した。

見つめた先にあったのは、

まるで隠し事をばらしてしまったかのように後悔しているアベルの顔だった。




「嫌なことを思い出させてしまって、すみません。ただ……、ただ私には、まだ耐えられなかっただけなんです……」




 頭をの肩に置いた姿は、思った以上に弱っていて、

はそんなアベルを放っておけなくなりそうだった。

だから、ゆっくりと両腕を彼の体に回し、強く抱きしめた。




「……我慢することなんてないのよ、アベル」




 まるで子供を宥めるかのように、優しい声がアベルの体を包み込む。




「私はただ、そのことに慣れているだけだから気にしないで。辛いのであれば……、

泣いていいのだから。ね?」




 一瞬、はっとしたようにアベルの体が動いたが、何かを感じ取ったからか、

両手をの腰に回し、強く抱きしめた。

頭を上げることなく聞こえる声は、どこか震えているようにも聞こえる。




「すみません……、本当に、すみません……」




 ゆっくりと体を離し、湖色の瞳とアースカラーの瞳が重なり、その距離が徐々に縮まっていく。

唇に軽く触れ、数回繰り返しているうちに深くなる。

の手が、何かを拭うかのようにアベルの頬へ振れると、

それに気づいたアベルの唇が、の指にそっと触れ、

そして再び、の唇に重ねた。



 体がゆっくりと倒れる。

それでもお互いにお互いを離すことはなかった。

深くなればなるほど、2人の心は絡み合い、抱きしめている腕が強くなる。



 だがしばらくして、アベルは何かに気がついたかのように、の体から離れようとした。

自分の気持ちを、彼女に押し付けることに抵抗を感じたからだ。




「……いいよ、アベル」




 起き上がろうとしたアベルの腕を、がしっかりと掴む。

それはまるで、拒まれるのを恐れているかのようにも見えた。




「気にしなくていいの、アベル。私はあなたの、『フローリスト』なのだから」

「しかし、それではさんが……」

「もとを言えば、3日前に私が怪我を治していれば、こんなことにならなかったのよ。

あなたもエステルも、こんなに傷つくことなどなかった。それが分かっているはずなのに、

まだあなたは拒否するの?」




 まるで、今まで溜まっていたものを吐き出すかのように、はアベルに訴えた。

その目には、いつの間にか涙が浮かび上がっていた。




「お願いだから……、お願いだから、私を拒まないで。私の存在を、無視しないで……」




 アベルの掌がの頬に触れると、それに甘えるかのように、

追い求めていた温もりをようやく掴み取ったかのように、ゆっくりと涙を流す。

その姿を見て、アベルはようやく彼女の苦しみに気づき、さらに胸を痛めた。



 あの時、素直に彼女の言うことに従えば、誰も傷つかずにすんだ。

自分も、エステルも、そしても、誰も苦しむことなどなかった。

彼女の言うことに、従っていれば……。




「…………!」




 再び唇がふれあい、彼女の中にある不安を取り除くかのように、深くなっていく。

お互いの腕がお互いの体に絡みつき、

お互いに傷ついた心を慰め合うかのように強く抱きしめ合う。






そして、ゆっくりと心を重ね合っていったのだった。











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