赤い点線が、疎らに通路に印をつけていく。
どうやら、予想以上に出血が激しいようだ。
エステルが立ち去った後でよかった。
自分のことよりも、他人のことを心配して安堵していることに、
は思わず苦笑してしまう。
他人のことなんてどうでもいい。
いや、今は自分のこともどうでもよかった。
ただエステルが、無事にアベルと合流し、“イブリーズ”さえ止めてくれれば、それでよかった。
あの砂嵐さえ、止めてくれれば、それで……。
「これで……、よかったのよね、リリス?」
壁に凭れ、滑り落ちるようにしゃがみ込む。
天井を見つめていた目をゆっくりと閉じると、闇の中から視界が開け、
どこかへ向かって進み始めた。
小山のような階段状ピラミッドが映し出され、それを勢いよく登っていく。
その頂上で目にしたのは、蒼白な顔をした同僚と、1つの女性の立体映像だった。
(……ちゃんと再生、したようね……)
自分のプログラムが正常に起動していることに安心したかのように、
は心の中でほっとため息をする。
いつもならすぐにアベルの身を按ずるのだが、今回ばかりは後回しらしい。
立体映像の人物を見つめたまま、なつかしの彼女の声に、耳を傾けていた。
“イブリーズ”を停止させるために、はこの人物から、
1つの「賭け」の話を聞き、プログラムを作り上げていった。
それは彼女の――いや、彼女との「願い」だった。
「アベルに停止コードを?」
「ええ。私は彼が、きっと地球人を救ってくれると信じている」
「アベルにはまだ、人間らしい心を残してくれてるんじゃないか。そう思っているから、でしょ?」
「ええ。だからこそ私は……」
「分かってる。そして私は、そんなあなたの意見に賛同した」
「その通り。……」
「ん?」
「もしアベルが、残留者を連れて来なかったら……、あなたは彼の代わりに、彼――もしくは彼女――を
ここに呼ぶの?」
「分からない。けど、もしそれがあなたの望みであればそうするわ」
「それはカルタゴ市民のため? アベルのため? それとも……、私のため?」
「……さあ、どうなんでしょうね……、リリス」
『アベル、この世界はあなたの敵じゃない。……いつでもやり直せるわ。それを忘れないで』
画像が激しくぶれ、白い光が混じる。
そして次第に、その場は闇に戻っていった。
ゆっくりと瞼を開ければ、オレンジ色の光が目の前に広がる。
そして初めて、自分が涙を流していることに気づいた。
「リリス……」
誰もいない水路でポツリと呟く声が、静かに響き渡る。
「会いたいよ、リリス……。会いたいよ……」
もう2度と姿を現すことがないことは分かっている。
でも、それでも、はそう望まずにはいられなかった。
再び会って、アベルと共に、昔約束した「あのこと」を、実現させたかった。
しかし、それはもう叶うことはない。
その希望も、彼女の夢も果たされることなく崩れてしまった。
だからこそ、彼女が出来なかったことを、やり遂げなくてはならない。
そう、ここで諦めるわけには、いかないのだ。
「……動かなくちゃ」
彼女が願う、未来のために。
「ここで止まっていたら、時間の無駄だわ」
そう決意した時には、彼女の体を白いオーラが包み込んでいった。
背中についた怪我をゆっくりと治して、
すぐにアベルとエステルのもとへ合流しようと思ったからだ。
エステルが無事に到着すれば問題はない。
しかし、“イブリーズ”を完全凍結させ、自壊させることが出来るのは、作成した以外不可能だ。
停止したのはいいが、また起動してしまったら、エステルとアベルの努力が無駄になってしまう。
そうならないために、完全に起動出来ないようにしないといけなかったのだ。
怪我も無事に治り、はすぐにその場から立ち上がろうとした。
しかし予想外の出血の多さに、貧血を起こさないでも、
さすがに限界が来ているようだった。
いや、この貧血はただの貧血ではない。
そう感じさせるような出来事が、次の瞬間、彼女の体に押し寄せていった。
「――うっ!!」
まるで、喉を強く締め付けられたかのように呼吸混乱に陥り、再び壁に寄りかかった。
荒い息が口から漏れ、鼓動が一気に早くなるのが分かる。
(まさか……、アベル!)
無傷である――正確には、怪我を治したの体が逆にこんなに激しい衝動に襲われている、ということは、
アベルに何らかの異変が起こったと言ってしまってもおかしくなかった。
再び瞳を閉じ、彼の状況を確認するかのように、闇の中の視界を広げていった。
そして次の瞬間、は心の底で、アベルの名前を大きく叫んだ。
「アベル!!!」
非常事態なのは、一目瞭然だった。
首筋、肩、脇腹にしっかりと牙を食い込ませ、獣じみた腕は獲物の四肢を押さえて離さず、
アベルの血を啜っているのだから、大声を上げない方が可笑しなぐらいだ。
そしてさらに、押さえられている当人は、
一向に抵抗の色を見せないでいるのだからなおさら黙っていられない。
「何やっているの、アベル! 少しは抵抗しなさい!」
アベルに言いかけながら、はある事実に気がついた。
アベルはエステルが自分の方へ向かっていることを知らないのだ。
(……悪い、)
心の中で響いた声に、は勢いよく瞼を開けた。
変わらず息を切らしながらも、何とかして耳をその声に方に向ける。
(“イブリーズ”を止めるには、残留者が必要なんだ。けど、ここには、そんなものいない……)
「だから、諦めると言いたいわけ!? 私は真っ平ごめんよ!!」
今、誓ったばかりなのに。彼女の願いを、叶えると再び決心を固めたのに、
こんなところで倒れるわけにはいかない。
なのにアベルは、その意思に背こうとしているのだ。
(もう、破局は避けられない。俺が今までしてきたことは、すべて無駄だったんだ)
「何、言っているのよ、この、ド馬鹿神父……! その体は……、あなただけのものじゃ、
ないのよ。……私は道連れにされる覚えなんてないわ!」
ここで死ぬわけにはいかない。
何もしないで逃げるわけには、いかない。
「私はこんなところで……、くたばるわけには、……いかないのよ!!」
左側の懐から短機関銃を取り出すと、何かに向かって一気に発砲を開始する。
目の前にそびえる鎧を身に纏った者達が一気に倒れていく音がする中、
大きな斧が旋回してくるのが見え、息を切らしながらもすぐにそれを避けた。
「アベル、よく聞きなさい。今そっちに、エステルが……」
の言葉は、そこで途切れた。
脳裏で激しい轟音が響き渡ったからだった。
それと同時に、閉めつけられていた苦しみから解放されていくのが分かる。
そしてその原因が、アベル以外の声が耳元に届いたのと同時に解明された。
『何をまた手抜きしてらっしゃるんですか、神父さま!』
「……よかった、間に合った……」
荒い呼吸を繰り返しながら、は酸素を体内に取りこみながら、安心したように呟いた。
どうやら、エステルがタイミングよく到着したらしい。
『大丈夫ですか、我が主よ?』
「まだちょっと辛いかも。フェリー、呼吸安定剤を投与して」
『了解しました』
修正・再生プログラム「フェリス」に指示を出すと、黒十字を着けている両耳から、
何かが流れるかのように体全体に回っていく。
それと同時に、呼吸が安定していき、落ちつきを取り戻していった。
「スクルー、前方……、じゃなく、双方にいる自動化猟兵の数は?」
『大量とだけ言っていく。――奥の方から、数が増えているため、数えられない』
「てことは、この体勢じゃ辛いってことね。――やるしかない、か……」
何かを決意したかのように、は髪を縛っている黒のリボンを外す。
白いオーラが全身を包み込み、ゆっくりと瞳を閉じる。
そして再び開かれた時、その瞳は血のように赤く染まっていた。
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