水の音に耳を傾けながら、はゆっくりと目を開けた。

どこかの部屋なのか、周りは壁に囲まれている。



 どこかに意識を飛ばしていたのか、彼女は大きく、1つため息をつく。

そして何度か深呼吸をしたのち、再びゆっくり瞳を閉じ、そしてまた開けた。



 壁から離れ、靴音を鳴らしながら扉に向かうと、ノブに触れてゆっくりと開けた。

頭上には太陽という名の頼りない円盤が浮かんでいて、

血の色をした空が広がり、波の音が静かに響き渡っていた。




「……あれから、もう14年立つのね」

『そうなるな』




 耳元から聞こえる声に、ははっとなりながらも、

何かを思い出したかのようにかすかに微笑んだ。

それに反応するかのように、目の前に小さな光の塊が出現する。

眩しすぎてはっきりとは分からないが、どこか人の形をしているようにも見える。




「久しぶりの表舞台はどう?」

『前回と同じ光景でつまらないな。……ま、場所が場所だけに仕方がないことだが』

「ここに入って、すぐにでも出てくるかと思ったのに、時間がかかったのね」

『プログラム達を大人しくするのに、少々手間がかかったのだ。お前がいいように育てすぎだ』

「あら、私のせいだと言うの? 酷い言いぐさね」




 呆れたように言いながらも、は同行している者達とところへと向かうべく、足を進める。

とても静かな風景に、自然と懐かしさを感じながら、少しだけ昔のことを思い出してみた。




「あの時は確か、列車だったわよね」

『左様。例のハンガリア候が利用していた列車と同じものだ』

「表から正々堂々と入っていいのかって聞いたら、許可が下りているから大丈夫って言われたのよね。

本当、あれには参ったわ」

『お前が普通の旅行者として扱われていたからな』

「実際、そんなんじゃなかったけど。……しかし、この瑠璃壁は本当に見事なものね」




 紫外線偏光障壁である瑠璃壁を、少し感心しながら眺める。

真昼でありながら、それすら感じさせない。

どのように作られているかも分かってはいても、

機械やプログラムに感心があるとしては興味深く見つめてしまう部分がある。



 しばらくすると、前方から聞きなれたいくつもの声がして、同行者に近づいていることに気づく。

光の塊は簡単に別れの挨拶だけすると、小さくなりながらゆっくりと姿を消した。



 しかし、ここまでの道のりは長かった。

普通だったら、すぐに到着するはずだった目的地に半月もかからなかったのだが、

帝国貴族内に潜む対教皇庁開戦論者達――強行派の目を反らさなければならなかったし、

途中で予想外のトラブルに巻き込まれたこともあって、予想以上の時が立ってしまったのだ。

だがそれも、ガザの港でモルドヴァ公爵家に仕えた扈従士民(ケトウ・ボエール)で、

今は国家士民(ケトウ・ツァル)として帝都で薬種商を営んでいるミマールのお蔭で、

こうして無事に目的地へ向かう運びとなったのだった。

もミマールとは面識があったため、

細かな事情を説明する手間も省けて丁度よかったと胸を撫で下ろしたものだ。




「船酔いぐらいで気分出さないでくださいませ、ナイトロード神父!」




 そんなことを考えながら歩いていると、

同行者の1人であるエステルが誰かを罵っている声がして、は慌ててその方へと向かった。

だが、その光景を目の前にした瞬間、何かを思い出したかのように、額に掌を置いた。




「……これは、そうとう酷いようね」




 くしゃくしゃに丸まっていた毛布から、

ろくに櫛もとおしていないボサボサの銀髪を見ながら、は大きくため息をついた。

彼が船に弱いことは知っていたが、ここまで来ると重症である。




「死ぬ死ぬって、おっしゃることがいちいち大げさなんですから! 少しは我慢ってものをなさってくださいませ」

「そうよ、アベル。あと少しで着くから、それまで大人しくしてなさい」

「そんなことおっしゃいますがね、私、船酔いってとても苦手で……」




 同僚がこんなでは、どうやってイオンの祖母にお会いすればいいのかと、

は真剣に悩み始めてしまった。

いっそのこと、どこかに閉じ込めてしまおうかとも考えたが、

一応護衛役を買って出たのだから、そういうわけにもいかない。



 かくして、今朝パンを6枚たいらげておきながらデリケートだと言い張る同僚――アベルは

小腹が減ったと言い始めたため、イオンはそこらに転がっている干し肉を投げつけ、

それを受け取ったアベルが意味不明なことを言いながらそれを頬張り始めた。

船酔いと空腹、どちらが本心なのかが分からなくなりそうだ。




[申し訳ございません、ミマール殿。どうか、お許し下さいませ]

[いえ、ご心配には及びません、様。……少々変わった方ではございますが]

[少々どころか、ものすごくですわ]




 エステルには、自分が帝国語を話せることなど、帝国に関することを何1つ伝えていないため、

イオンと会話している彼女の耳に届かないように、小声でミマールに話しかけてる。

じきにバレることであるのには変わりはないが、今はまだ教える時ではないと思ってのことだった。




[本当、呆れてものも言えませんわ]

[船に酔われる方が1人ぐらいいてもおかしくありません]

[あれは酔い過ぎです。全く、本当にだらしがないんだから]




 何度目になるため息をつきながら、は未だ干し肉に齧りつくアベルを見つめていた。

その姿を、ミマールがどこか物珍しいように眺めていることに、彼女はすぐ気がついた。




[どうかいたしましたか、ミマール殿?]

[ああ、いえ、何でもありません。ただ……、ちょっと、驚いたもので]

[驚いた?]




 ミマールの不審な言葉に、は思わず顔を顰めてしまう。

だが問い質す前に、視界に都邸の中で最も大きな屋敷に接近してきているが見えたため、

タイミングを逃してしまった。

どうやら、無事に到着したらしい。



 イオンはエステルに先に降りるように言い、

彼女はなおも食事に執着するアベルを引きづりながら、縄梯子を降りていく。

それを見送りながら、ミマールにここまで乗せてもらったことに感謝の言葉を送っていた。

その言葉を聞きながら、はエステルの先を追って、下に降りようととしたのだが、

ミマールの口から毀れた言葉に動きが止まった。




[あ、あの、若様]

[ん? 何か?]

[いえ、その……、お気をつけて]

[ああ、そなたもな]




 ほんの、他愛もない会話だった。

が、には何か引っかかるものを感じていた。

だからこそ、ミマールにどうしても聞かなければならないことがあった。




様。いえ、卿]




 だが、問い質すよりも先に口を開いたのは元扈従士民の方であった。




[どうか、若様をお護り下さい。こんなことを頼めるのは、あなた様しかおりません]

[それは一体、どういう意味ですの、ミマール殿?]

[…………]




 の問いに、ミマールは沈黙という答えしか出さなかった。

こうなれば、自分でその謎を解くしかない。

そう思った彼女は、軽く息をついてから、安心させるかのようにミマールへそっと微笑んだ。




[……ご安心下さいませ、ミマール殿。メンフィス伯は、私がしかとお護りしますわ]

[ありがとうございます、卿]




 安堵の表情を見せたミマールを背に、

は船から飛び降りるかのように軽く跳躍をし、地上へと降り立った。

普通の短生種では真似出来ないことを、いとも簡単にこなしてしまう今の自分に、

は思わず苦笑してしまった。




(なるほど、ちゃんと「力」が使えるみたいね)




 帆船は速度を上げ、帝都でも海峡の対岸である東岸へ向かって遠ざかっているのを見送ると、

はそれに背を向け、懐かしの都邸を見つめていた。



 確か昔は、こんなにじっくり見つめたことがなかったから、

これほど大きな建物であることに気がつかなかった。

そう思うと、よほど当時の自分は無関心だったと、思わず苦笑してしまう。




(本当、変わったものね、私も)




 一瞬、昔へタイムスリップしそうになったが、今はそんなことをしている場合ではなかった。

とりあえずは、イオンの祖母であるモルドヴァ公爵ミルカ・フォルトルナへ挨拶をしに向かわなくてはならない。




「そなタ、こちらに留まるつもりはないカ?」

「は?」




 そんなことを考えている時、背後から聞こえて来た言葉に、は視線をそちらへ向ける。

そこでは、イオンがエステルに、自分の士民になって、

ここで暮らさないかと交渉しているところだった。



 イオンがエステルのことを気にしていることは、

この半月同行して、すでに勘づいていた。

だから、このような言葉が出て来ても、何もおかしなことではなかった。



 だが、エステルはその誘いを、自分にはやりたいことがあると言って、

頬をかすかに赤らめ、気恥ずかしげに頭を掻いた。




「私は私の家族や、私の知っている人達がどうして死ななくちゃいけなかったのか、

それを知りたくてここまで来ました」




 そう。

エステルには、どうしても突き止めなくてはならないことがあった。

そしてそれに、は賛同し、協力することを誓った。

幼い彼女に出会ったことがあるからではない。

もっと別の、何かのために。




「……あのぅ、すみません、お取り込み中に大変失礼致しますが」




 間の抜けた声が2人の会話を割りこみ、そしても、その声に反応して視線を動かす。

そこに見えたのは、体をくの字に降り、お腹を押さえたアベルの姿だった。




「伯爵閣下、恐縮なのですが、ちょっとおトイレ貸していただけませんかね? 何ですか、

さっきのお肉が、その……、直撃?」

「わ! 神父さま、顔色が真っ青ですわ!」

「さっきから黙っていたのは、そのせいね……」




 「力」が戻っていてよかったと、は思わず安心してしまったが、

今はそれどころではない。口から何かを出そうとするアベルに慌てながらも、

エステルは我慢するように告げると、イオンから士民用の厠の場所を教えてもらうと、

アベルを肩を抱いて歩き始めた。




「1人じゃ大変だわ、エステル。私も手伝うわよ」

「ありがとうございます、さん。さっ、神父さま、行きますわよ」

「はい。……ああ、お腹の中で大騒動が……」

「変なことばかり言ってないで、とっとと行くわよ!」






 アベルを罵りながら、赤い景色の中を次第に遠ざかっていく3つ影を、

1人残されたイオンは複雑な表情で見送っていた。



屋敷の中が、大変なことになっていることも知らずに……。











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