あれから、どれぐらい立ったであろうか。
は瞼を擦りながら、何とかして上半身を起こした。
土地や習慣が変わっても、寝起きの悪さだけは健在だった。
頭を左右に睡眠状態の脳を叩き起こそうとするが、なかなか言うことを聞かない。
そのままじっとして、ようやく動き出したのは10分後のことだった。
タオル類を手にして、部屋を出る。
眩しい日差しの代わりに星空を眺めることが出来るのもこの土地ながらである。
(分かってはいるもの、やっぱり夜ならばゆっくり寝たいわ)
髪をかきあげながら、長い廊下を歩いていき、目的地に到着する。
扉を開け、手に持っているものを棚に置いた時、ようやく先客の存在に気がついた。
[相変わらず、朝が苦手なやつよな]
[朝なのに暗いから、なおさら辛いわ]
少し皮肉も入れて返事すると、は身につけていた衣類を1枚ずつ外し始める。
全て脱ぎ終わり、長い髪を1つにまとめてピンで止める姿を、アストはじっと見つめていた。
[……何かついてる?]
[いや、何も。…………ほおう、なるほど。ナイトロード神父はこういうのが好みなのか]
[…………はあっ!?]
もしこの場が浴場だったら、の声は確実に大反響していたことであろう。
突然の言葉に、思わず近くにあるタオルで体を覆ってしまうほどだ。
[まあ、そう顔を赤くするな。ただ、聞いてみたかっただけなゆえ]
[だからって、朝から何てこと聞くのよ、あなたって人は!!]
[さて、余の疑問も解決したことだし、入るとしよう]
[私は解決してないんだけどなあ……]
の呟きなど耳に入っていないようで、アストは彼女に背を向けて浴場へ入っていく。
そんなアストを、は半ば呆れたように見つめながら後を追った。
中に入ると、浴槽の方から声がして、はすぐに先客がいること、
そしてそれが旅の同行者のものだとすぐに分かった。
どうやら、彼女もと考えていることが同じらしい。
先に到着したアストが乳剤の説明をすると、
エステルがあわてて湯船から上がろうとしたが、それをすぐにアストが止めた。
「構わぬ。我が館におる限りは、短生種といえど余の客であることに違いない。ならば、
ゆるりとくつろぐがよい。――そうであろう、?」
「何で私に聞くのよ」
まるで、以前からここに住んでいた者のように扱うアストに、
はため息をつきながら背後から姿を現す。
その姿に、エステルは思わずどきっとした。
「さん! ご一緒だったのですか?」
「一緒だったと言うか、たまたま脱衣所で会っただけよ」
「そう、だったんですね」
「うむ。……そなた、確かエステルとか申したな?」
「は、はい! エステル・ブランシェと申します。教皇庁国務聖省に奉職しております」
「ふむ、国務聖省の……。では、ナイトロード神父との同僚というわけか。
それはまた苦労多きことよ。同情するよ」
「……は、はあ」
「私とアベルを一緒にして欲しくないわね」
悪戯っぽく口元を綻ばせ、アストはさっさとかかり湯をすませて浴槽の反対側に身を沈める。
もそれに続くかのように身を沈めたが、アベルと同レベルで扱われたことに少し機嫌を損ねていた。
そんな2人の姿を、エステルは惚れ惚れするかのように見つめていた。
たいていの男を凌駕する長身に、メリハリの利いた曲線で構成されているアストに、
彼女ほどではないが、どこか上品さを感じる。
2人とも、エステルがこれまでに見てきた中でも美しい部類に入る女性だった。
この貧弱な体とは、比べものにならないほどだ。
「……それにしても、変わった傷よな」
そんなエステルの心を読んだかのように、アストが彼女の脇腹にあるものを見つめて言う。
もそれを探すかのように覗き込む。
「どこにあるの?」
「右脇腹のところだ。形も変わっておったが、ずいぶんと大きい。……その腹の傷は戦傷か?
そんな傷を追って、よくも短生種の命が保てたものだ」
アストに言われた通り、はエステルの右脇腹にある傷――実際には痣だったのだが――
を見つめる。確かに、星の形をした不思議な痣だった。
普通なら、それだけで終わるはずだった。
しかしの場合、それだけでは終わらなかった。
何かが喉に引っかかって、イライラしていく。
「面白い痣じゃな。きれいな星の形をしておる。……おお、そういえば短生種の言葉でそなたの名は
“星”を意味するのであったか? 母御はそれから名をつけられたのか?」
「さ、さあ、どうでしょう……」
エステルは自分の母親が誰なのかを知らない。
幼い頃、赤ん坊だった彼女は聖マーチャーシュ教会に預けられていたのだから、
知る由もない。
エステルの名前の由来。
そして、星の形をした痣。
の脳裏に、その2つがぐるぐると回転し、更なる混乱を生み出そうとしていた。
何か、大事なことを忘れてしまっているかのように、
思い出そうとしても、なかなか思い出せない。
一体、この痣は何を意味しているのだろうか。
『この子には星のように輝いて欲しい。だから、それに因んだ名前をつけましょう』
「……どうした、? いくら汝でも、目を開けたまま眠るなどという器用な真似までは出来んであろうに」
アストの言葉に、はすぐに我に返る。
横で、エステルが心配そうな表情を覗かせていたため、何とかして弁解の言葉を綴る。
「ああ、ごめんなさい。まだ頭がちゃんと働いてないみたい。心配させてしまったわね」
「そう、ですか。……やはりさん、お疲れだったんですね」
「ちょっとは、ね。でも、ここでちゃんと目を覚ませていくから平気よ。ありがとう」
そっと微笑んだ顔に、エステルの顔が赤く染まっていく。
そんな彼女を、アストが冷やかすかのように笑みを作る。
「相変わらず、汝の笑みは殺人兵器よな」
「あら、それじゃ、笑っちゃいけないってわけ?」
「そういう意味ではない。……しかし、汝も変わったものだ。昔はそんな笑みなど見せなかったのにな」
「あ、そのことなのですが……」
が何か言おうとしたが、エステルが先ほどからずっと聞きたかったことを
アストに問いかけた。
「あ、あの侯爵閣下、1つ伺ってもよろしいでしょうか?」
「何か?」
「どうして、あたし達を助けていただけたのでしょう? こんな風にかくまっていただけたのはその……、
やはりナイトロード神父と、こちらにいるさんと何か関係があるのでしょうか?」
「ああ、そのことかや」
長い指で髪にとまった水滴を弾きながら、
アストは3年程前、自分が勅命を帯びて“外”に出向いた時のことをエステルに説明した。
だがあくまでも、アベルには貸しはあっても借りはないと言うのには、
も苦笑するしかなかった。
その後、アストのアベルに対する文句はなかなか尽きず、
エステルはどこで相槌を打てばいいのか分からなくなり、
もで、長年疑問に思っていたことが解決して、ようやく胸をなでおろした。
現に、あのネバーランド島にいた子供達の行方は、
無関心な彼女でも気にはなっていたのだから、少し安心していた。
「に関しては、それより以前に帝都で会っているが、その時はこんなに明るい者ではなかった。
どこか暗くて、湿っぽい部分があったな」
「あの頃は、極秘任務で精神的にも病んでいたのよ。笑っている暇なんてなかったわ」
「まあ、確かにそうじゃったがな。だが、その時は余が特に何かをしたわけではなかった。よって、
彼女にも借りがあるわけではない」
「ご尤も」
アストは納得してくれたが、にはそれ以外の理由が存在していた。
自分と繋がっている者に会うことが出来ず、そしてその者からさらに遠くへ離れたことで、
心のどこかに隙間風が吹いているかのように胸元を縛り付けられていたのだ。
それは、ここに来たからではなく、それよりもっと前から感じていたことでもあった。
あの頃、唯一その人物に会うことが出来たのは夢の中だけだったのだから、
なおさら辛いものだっだ。
「え、えーっと……、すると、閣下。結局、閣下があたし達をお助け下さったのは、いかなり理由が
あってのことでしょう? 今回のご助力がナイトロード神父とさんのご縁でないとすると、
他に何か?」
「……うむ、それよ」
アストがエステルに、皇帝陛下より彼女達を守るように命じられたことを説明し、
それに対して、エステルが首を捻る。
それは、も同じだった。アストは奇妙なことではないと言うが、
にとっては、正体が誰なのか分かっている分、その疑問は大きかった。
「一体、皇帝陛下っておいくつぐらいの方なんですの? この国は建国されて800年ぐらいですよね?
つまり、陛下は少なくとも800歳は超えてらっしゃいます」
「ああ、余らもせいぜい長生きしても300年ほど。到底、あのお方の閲された歳月には及ばぬ。
だが、言ったであろ? あの方は特別だと……」
「特別、ね……」
には知っていた。皇帝がどういう人物で、どういうことをして来たのか。
だからこそ、アストのこの言葉に、は心の中で顔を顰めた。そして、呟いたのだ。
もし彼女があのような決断をしなければ、あんなことにならなくて済んだのに、と。
「……さ、そろそろ汝もあがるがよい、短生種の娘よ。位服は用意しておいた。着替えたら、
食事にいたそう。は、もう少し入っていくか?」
「ああ、いいえ。もう目も覚めてきたからあがるわ」
十分に温まった体を湯船から起こすと、アストは温まりすぎてのぼせ始めているエステルに優しく告げ、
その後をも続いて湯船からあがったのだった。
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