[……そこにおるのは、誰ぞ?]
内邸“境の間”にいる主が、
視線を窓の外に固定したまま、鈴を振るような声だけを背後に向ける。
[我が宮に入り込むとは不敵な奴……。ここが、真人類帝国皇帝が禁闘と知っての狼籍か?]
[……失礼致しました]
どうやってここに入って来たのか、いささか疑問には思ったが、
寛衣にこびりついた枯葉を見る限り、外邸からここまで、はるばる森を抜けてきたのであろう。
少女は立ち現れた銀髪碧眼の若者に冷たい瞳を向けた。
[私、神父アベルと申します。教皇庁国務聖省より参りました者です。我が上司、
ミラノ公カテリーナ・スフォルツァ枢機卿から、陛下への親書を携えてまいりました
者でございます]
[ほう、教皇庁の……。では、余の親書は無事に届いたと見えるな。遠路、ご苦労であった、
アベルとやら……そう言いたいところだが――。我より送りし使者は、今、どこにおる?
メンフィス伯イオン・フォルトゥナはどこだ?]
[その件をご説明する前に、こちらも1つお答えいただきたいことがあります。
――あなたは誰なんです?]
[なに?]
アベルの顔は吸血鬼の女皇に怯えた様子は欠片ほどもなく平静そのものだった。
そして少女も、当然のように問い返した。
[……異なること言う、教皇庁の使者よ。ここは境の間――皇帝の居室。されば、
真人類帝国皇帝以外の者がおろうや? そう、妾こそが帝国唯一の主、アウグスタ・
ヴラディカである]
[本当に? 本当にあなたが皇帝なんですか?]
[何が言いたい、短生種? 先ほどから、一体何を申しておるのじゃ、そなたは?
いや、問いを変えよう。そなたは一体、何を知っておるのか――]
[申し上げます!]
皇帝の問いかけは、野太い男の声が扉の向こうから轟いたことによって止められた。
ほとんど爆発せんばかりの勢いで開け放たれた扉から駆け込んで来たのはバイバルスだ。
[宿直のイェニチェリが御門に侵入者の形跡を発見しました! 何者かが内邸に侵入を試みた
可能性が――ぬっ、こやつは!?]
バイバルスの瞳がアベルを捉える。
一瞬驚いたように瞠目したが、瞬時に背の愛剣を鞘走らせる。
[慮外者! 何奴か!]
黒剣が風を切った時には、アベルは素早く身を翻し、窓に向かって突進していた。
しかし、そんなアベルを妨害するかのように、バイバルスは一瞬にして彼の眼前に現れた。
[死ね!]
[――やめよ、バイバルス!]
だが、それを両腕を上げて立ちはだかって阻止したのは、髪を乱した少女であった。
[そのものには問い質すことがある! 殺してはならん!]
ヴラディカが一喝している間に、アベルは再び扉へ向かって突進した。
が、その視線の斜め先で、彼はある姿を目撃した。
どうやってここまで来たのだろうか。
いや、彼女のことだから、何か策を見つけて侵入したのであろう。
そうだとしても、いつからここにいるのだろうか。
この場にいる皇帝や帝国禁軍兵団長は気づかないのであろうか。
疑問が次々と浮かんできて、思わず声を上げそうになってしまう。
しかし、対象者である相手は、口元に右人差し指を押さえたまま見つめるだけだった。
この場は何も聞かず、すぐに逃げろという意味であろう。
アベルはそれを読み取ると、1つだけ頷き、体を丸めて窓ガラスに突っ込んだ。
ガラス片を粉雪のように纏いつかせた彼の姿は眼下の闇に小石のように落ち、
一呼吸おいて、木々の枝がへし折れる音がかすかに聞こえる。
(アベル……、無事なの?)
(え、ええ、まあ、何とか……)
ここで話しかけていいものか悩んだが、もう1人の侵入者
――は同僚の無事を確認すべく声をかける。
(しかし、さん、どうしてここへ? 私はてっきり、メンフィス伯とエステルさんの側に……)
(理由はあとで。アベル、あなたはすぐにアストと合流して屋敷に戻ってて。私もすぐに追いかけるから)
(……さん、あなた、一体何を隠しているんです?)
脳裏に響いた言葉に、は一瞬顔を顰める。
(帝国に来てから、さん、ご自分の意見を、私に何1つ教えてくれません。いつもなら、
ちゃんと言ってくれるのに、どうして……)
(……ごめんなさい、アベル)
アベルの発言を遮るように、は心の中の口を開く。
そして、まるで申し訳ないかのように言葉を綴る。
(今はまだ、何も言えないの。確信持って言えないからというのもあるし、事があまりにも大きすぎる
からというのもある。だから……、だからもう少しだけ、待っていてもらえないかしら?)
は自分の情報に確信が持てるまで、誰1人として伝えることはしない人物である。
そのことをよく知っているのはアベル自身だ。
しかし、今回はその確信に至るまでが長すぎる。
「彼」の存在があるのであれば、事はもっと早く解決しているはずだ。
だが、これ以上彼女を責めるわけにはいけない。
彼女は強そうに見えるが、本当は脆く、壊れやすいからだ。
(……分かりました、さん)
低く、それでも責めることのない言葉が、の心を包み込む。
(でも、無茶だけはしないで下さいね)
(……ありがとう)
声は、ここで途切れた。彼が逃げる足音が聞こえてくるようで、それが遠くなればなるほど、
は安心しつつも、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
確信はしている。だが、それを言うわけにはいかない。
その理由は自分でもよく分かっていないのだが、
言ってしまえば、何かが崩れてしまうのではないかという不安があったからだ。
そしてその不安の原因が、今、この目の前にある。
[短生種風情が、我がイェニチェリ達の影から逃れられようはずもない。じきに取り押さえられましょう]
[彼はそう簡単に捕らえられるような人じゃないわよ、バイバルス卿]
皇帝とはまた違う女性の声に、バイバルスは自分の耳を疑った。
それは、目の前にいる少女も同じのようで、辺りを見まわしている。
[どこを探しておいでですか、陛下。――いいえ、モルドヴァ公ミルカ・フォルトゥナ卿]
こつりという足音は、2人の横から聞こえて来た。
だがその場には、その痕跡は何1つなかった。いや、ないように見えた。
地面に、何かが浮き上がってきて、それが2つに分かれていることから、
人間の足だということが分かる。
そしてその影は、徐々に上昇していった。
[……そ、そなたは……!]
[またお会いしたわね、バイバルス卿。先ほどの演説、お見事だったわ]
青と緑の瞳が2人の姿を捕らえる。
そして何かを掴んだかのように、口元を緩めたのだった。
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