[本当、貴方の苦労がよく分かるわ、バイバルス卿]
[いや、あれはまだマシな方だ、卿]
後方から聞こえる声に、バイバルスは先ほどのミルカの笑みを思い出したかのように、
少し呆れて答える。
[汝も存じておるだろうが、あの方が本気を出したら、こんなものでは済まされぬ]
[よく知っているわ。だから怖いんじゃない。それより……]
[何だ?]
[一体あなたは、どこまでこの状態を継続させるつもり?]
がこう言うのには理由がある。
バイバルスが誘導してくれるのは“境の間”の出入り口までかと思いきや、
急に彼の愛馬の後ろに乗せられ、何振り構わず西岸部まで連れてこられたのだ。
これでは、プログラムの情報を聞き出すどころか、自ら調べることすら出来ない。
[ミルカ様から無事にキエフ候邸まで送り届けるようにと申されて、その通りに動いているだけだ]
「そんな、余計なこと言わなくてもいいのに……」
[仕方あるまい、ご命令に背けば、小官がただじゃすまされない]
[言葉、分かってたのね……]
バイバルスがローマ公用語を知らない方が可笑しいとは思っていたが、
本当だと分かると、おちおち愚痴もこぼせない。
は呆れたように顔を顰めると、ここはとりあえず上官の言うことを聞くことにした。
数分後、馬はキエフ候邸の数メートル前で止まり、は手馴れたように馬から下りた。
[何はともあれ、送ってくれてありがとう、バイバルス卿]
[これしきのことは構わぬ。……卿]
一瞬、バイバルスの顔が強張ったかのように見えたが、
それはすぐに解かれ、本来の温厚な表情に戻った。
[ミルカ様の件、どうか内密に頼むぞ]
[あそこまで言われたら、そうするしかないわ。……メンフィス伯にはちょっと気の毒だけどね]
[すまぬ。こんなこと、あの方の性格をよくご存知であるそなたにしか言えぬことだからな]
[分かってる。あなたも、お気をつけて]
[了解した]
軽く頷き、バイバルスはに背を向けて、馬を走らせる。
その姿が小さくなるまで見送った後、は1つため息をつき、屋敷へと足を進めた。
『お前の勘は当たったようだな、よ』
「当たったけど、それ以外のことは何1つ分からなかったわ」
禁軍兵団長の姿が見えなくなったのを確認するかのように、耳元から聞こえてくる声は、
まるで自分の「娘」の予想通りで喜んでいるようにも聞こえた。
「ミルカ様のことはメンフィス伯に知らせることが出来ない。アベルとアストにだけでも知らせて
いいかもしれないけど、あの阿呆神父のことだから、どこで口を滑らせるか分かったもんじゃないわ」
『無論、それはあるな。……』
「ん?」
『……どうやら屋敷で、何かあったらしい』
「え?」
その声と同時に、屋敷の玄関から姿を現したのは、何か慌てふためいているアベルだった。
一体、どうしたのであろうか?
「……まさか、エステルとメンフィス伯のこと?」
『そのようだ』
「あっ、さん! 無事に戻ってこられたのですね!?」
の姿を発見し、アベルが彼女へ向かって走り出す。
数メートルしかない距離なのに息を切らしているということは、
屋敷内でも走り回っていたということであろう。
顔からは、白い顔の血の気が引いており、さらに白くなっているように見える。
「そんな血相かいて、どうしたのよ、アベル?」
「じ、実は、星皇宮から戻って来たのですが、屋敷の中が大騒ぎになっておりまして……」
「それはあなたの顔を見れば分かるから、結論を言いなさい」
アベルの声は、まるで自分を責めるかのように聞こえ、何故かは胸が痛んだ。
この姿を見るのが、彼女にとって1番辛い。
「エステルとメンフィス伯のことなんでしょう? 一体、どうしたのよ?」
「はい……。屋敷に戻ったら、お2人がいなくなったって……」
「……何ですって!?」
予想はしていたが、まさか現実になるとは思ってもいなかった。
はやり、自分が屋敷に残っているべきだったと、思わず自分に拳を向けたくなるぐらいだ。
「検討はついてないの?」
「ええ、全く。ただ、お屋敷にあった地図がなくなっていたので、
どこか遠くに行かれた可能性もあるのではないかと」
地図を持ったとなると、行く可能性が高い場所は1つしかない。
東岸部にある、短生種区画だ。
そこに行けば、何らかの手がかりは掴めるかもしれないが、情報を収集するのに時間がかかってしまう。
は黒十字のピアスを軽く弾くと、その奥にいるであろう「者」に声をかける。
「短生種区画から、至急エステルとメンフィス伯の足取りを追って欲しいの。時間はどんなに
かかってもいいけど、出来るだけ早く」
『了解した』
「私達も探しましょう。もしかしたら、この周辺にいるかもしれないし。……ほら、
いつまでもそんな顔しないで、しゃきっとしなさい!」
「ウゲッ! わ、分かりました」
指示を出し終えたは、
焦った表情を隠せずにいるアベルに向かって活を入れるように背中を叩くと、
彼はそれに押されて再び走り始めた。
「全く、情けないんだから……って、呆れている場合じゃなかったわ」
小さくなるアベルの姿を見つめながら、は軽く地面を蹴ると、
彼とは違う方向へ向かって走り始めた。
ここにまだ、エステルとイオンがいることを願って。
しかし結局、2人の姿は見つからなかった。
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