居間に戻ろうとしたが、前方から来る少年に姿によって、その足はすぐに止まった。
「……あれは、もしや……」
“加速”を使っていたからか、顔まではっきりと見えなかった。
しかし、ここにいる長生種と言えば1人しかいなく、は後を追いかけずにはいられなかった。
「ちょっと待って下さい!」
その、同じ方向から聞こえた声に、はすぐ視線を向ける。
それはまるで、先を急いだものを追いかけるかのように聞こえる。
「どうしたの、エステル?」
「あ、あれ? さん? 神父さまとキエフ候とご一緒だったんじゃ……」
「理由あって、ここに残ったの。――それより、さっき走っていったのはメンフィス伯?」
「はい」
「とにかく、追いかけましょう。間に合うか分からないけどね」
そういうと、はエステルを抱え、軽く地面を蹴った。
“加速”にも似た速度で廊下を前進していた。
だが、イオンを追いかけるのにしては、少し遅かったのかもしれない。
外に出た時にはもうすでに彼の姿がなかった。
「どうやら、間に合わなかったわね」
「ええ……。……閣下、一体なぜ……?」
何か、思いつめたかのようにため息をつくエステルに、
はなぜか、胸が苦しくなった。
どうしてなのか分からないが、このまま黙って放っておくことなど出来なかった。
「何かあったの、エステル?」
彼女を支えるかのように背中に手を添えると、エステルがの顔を見つめる。
一体、自分はどんな顔をしているのだろうか。
どこか心配していうようなの顔が、エステルの瞳に映し出されていた。
「実は……、閣下、ヴィテーズ司教さまのことをご存知だったようで、それによって、
あたしが皇帝暗殺を願っているのではないかと言い始めたのです」
「……何ですって?」
もアベルも、そしてエステルも、一度もイオンにヴィテーズ司教のことを話したことなどない。
話したとしても、すぐに事情を説明して、理解してもらうように努力した。
一体、どこから情報が漏れていたのだろうか。
「閣下、おっしゃってました。『どうして話してくれなかったのか』って。でも、話したところで、
何も起こらないと思ったから言わなかっただけなんです」
「あなたの考えていることは間違ってないわ、エステル。……なるほど、変なことを吹きこんでく
れたわね」
最後の言葉は聞こえたかどうかは分からない。
それぐらい、小さな声で呟いた。
こんな手を仕込む相手など、ここには1人しかいない。
そしてその人物は、今、直ちに取り押さえなくてはならない者――。
「――エステル、あなたはここで待っていて」
背中に回していた手を肩に移動させ、安心させるように軽く叩く。
そしてそっと、「天使」に似た微笑みを彼女に送った。
「メンフィス伯は、私が追いかける。だからあなたは、ここで待っていて頂戴。――大丈夫。
ちゃんと無事に連れ戻してくるから。ね」
「……はい。ありがとうございます、さん」
の微笑みは、何故かエステルの心を安心させていった。
まるで、心の中の靄がすっとなくなるようだ。
「それじゃ、行って来るわね、エステル」
「はい」
力強く頷くエステルに、は少しだけ肩の力が抜け、再び優しく微笑み返す。
そして、地面を軽く蹴った。
だが、その足は、数メートル離れた位置で止まった。
エステルの姿が見えなくなったことを確認し、すぐに方向を変える。
「『彼女』の居所を突きとめて」
『了解した』
前方に現れた線が、何かを示すかのように進み始める。
それを負うかのように、はさらに“加速”を繰り返した。
エステルとの会話を交わしている間、緑林のあちこちに散らばる人影を避けるように
わき道へ移動している小柄な影が飛びこんできていた。
その顔は確かに、の見覚えのある少女の顔だった。
本来なら、彼女のことなど無視して、イオンの後を追うべきであろう。
しかし、皇帝がミルカであるということを知った今、
さほど大きく心配する必要などなかった。
それよりも今は、目の前で動く人物の方が気がかりでならない。
は身を潜めながら、線の後を追って走ると、
だんだん目的の人物までの距離が縮まっていったのだった。
線がゆっくりと消える。
それは、相手に追いついたという合図だ。
は気づかれないようにこっそり後を突けると、目の前に1件の廟邸が姿を現した。
木陰に隠れ、ゆっくりと視線をそちらへ向ける。
目を細め、遠くにある廟邸の門柱に彫られている家章を見ると、
それはモルドヴァ公爵家の“車輪踏む一角獣”に間違いなかった。
まさか、あの者が絡んでいるというのか?
「あれ、ここは――?」
耳元に届いた声に、ははっと我に返った。
その方向へ視線を向ければ、キエフ公廟邸に置いてきたはずのエステルが、
そこに立っているではないか!
(ど、どうしてエステルが!?)
『理由はお前と同じだ、』
黒十字のピアスから聞こえる声は、とは違い、冷静さを保っていた。
『お前がエステル・ブランシェから離れたあと、顔見知りである「あの者」の姿を発見し、
ここまで追いかけてきたのだ』
(だからって、またこんな無茶なことを……)
ここまで来るのに、少なくても半時間は経過している。
多少の「力」で修正したとは言え、
まだ肩の怪我がちゃんと完治していないのにも関わらず、ここまでやって来るとは。
ここまで来ると、もうでもお手上げ状態である。
しばらくして、エステルは例の少女に姿がばれて、何やらいろいろ質問しているようだ。
かすかにしか声が聞こえず、は黒十字のピアス越しに向かって指示を送り、会話を一部始終聞き取った。
どうやら少女はある貴族の密偵で、“強行派”について調べるように命じられているらしい。
エステルとイオンに近づいたのも、その一環だと言う。
としては疑うところが山のようにあるのだが、
とりあえずこの場は特に大きなこともなさそうなため、とりあえず様子を見ることにした。
(彼女だって、さすがにエステル相手じゃ、大きな事は出来ないと思うし。
何かあったら、飛び出せばいいわ)
心の中で呟き、しばらく2人の姿を見守った。
が、廟邸の正面玄関が開く音がして、視線をすぐにそちらへ移動させた。
そこから姿を現した3つの影に、は身を硬くした。
2つは今まで散々見てきたもの。もう1つは――。
(……やっぱり、ね)
予想通りの人物の登場で、は目を鋭く輝かせた。
だがその先で、密偵だと言う少女が、3人が山道を下りていくのを確認してから、
大股の足取りで廟邸へと突進していった。
それを追うように、エステルが彼女のもとへと走り出す。
(廟邸の中を映し出して)
『了解した』
指示に従うかのように、の前にある立体映像が映し出される。
その床に敷き詰められているのは、無数の白い袋である。
(これって、先日モルドヴァ公邸を爆発させた……!)
『いかにも。同一のものと見てもおかしくない』
皇帝がここを訪れたのと同時に、
彼女諸共爆発させようとしていると言ってしまっても可笑しくない光景に、は目を大きく見開いた。
そうともなれば、一刻も早くミルカに知らせなければならない。
だが、そんなの行動を妨げるかのように、
ある者の声が、前方にいるエステルと少女の耳に届いた。
[“キエフ候に知らせないと”? では、君達を匿っているのはアスタローシェ・アスランかね?]
2人の会話から耳を塞いだわけではなかったため、の耳にも、その声は確実に届いていた。
だからすぐに、方向を変えようとした足を止めた。
(やばい! これじゃ、相手の思うつぼじゃない!!)
はすぐに方向を戻すと、右懐にある短機関銃を取りだし、レバーを一番奥へと押し込んだ。
緑林を一気に抜け、表に姿を現した時には、
すでにエステルはアスト達に知らせるために山道を下り始めていた。
それを追いかけようとした青衣の男は、密偵の少女に道を塞がれていた。
『気をつけろ、』
2人に接近しようとしていた中、黒十字の奥で警告する声が聞こえる。
『相手の指輪は――冷却した極小の磁場を高速射出する極磁場開放型デバイスだ』
「分かってる。“ソロモンの指輪”でしょ?」
『さすが、我が「娘」だ』
「我が娘」という言葉に、
は一瞬、あの憎めない笑みを浮かべる帝国貴族の顔が浮かんで思わず苦笑してしまう。
もうじきここへ到着する時間のはずだ。
無事にここまで、辿り着くことが出来るのであろうか。
そんなことを考えながら、は前方にいる者達の姿を追った。
密偵の少女は相手の攻撃を、咄嗟に後方に向けて跳躍していく。
だが――。
[し、しまった――!?]
着地したと思われるところには地面がなく、そのまま海に直結した高い断崖になっていたのだった。
[ま、まずっ――]
「……危ない!!」
何故声を上げたのか、自身分からなかった。
体が勝手に地面を蹴り、爆発的な勢いで抉れ吹き飛ばされる小柄な影を追いかけた。
崖下に転落していく姿を追うかのように、“加速”を利用して猛スピードで落下する。
そのお蔭で、何とか相手の足を掴み、そのまま彼女の体を支えるように抱きしめた。
そのまま真下の海に飛び込むと、2つの体はみるみるうちに深く潜り込んでいく。
普通なら、目を開けるのですらすぐに出来ないはずなのだが、
は何の苦もなく、しかもまるで呼吸でもしているかのように口を開けていた。
抱えている少女は、どうやら無事らしい。
の顔を見て、驚きを隠せないでいるようだが、今はそれどころではない。
はそのまま海水の中を泳ぐと、彼女のために急いで水面へ出た。
「ぷはっ!」
ようやく酸素を取りこむことが出来たのか、相手は荒い息遣いを繰り返している。
一方は、水中でも何の支障もなかったため、苦しい表情は見せていない。
「大丈夫?」
「ああ、うん……。君は……、いや、本当に君なのかい?」
「詳しい説明は後。とりあえず、岸に上がるわよ」
相手の問いを無視して、は彼女を連れて、近くの岸辺まで辿り着いた。
何とか沖まで行き、重たくなった服を引きずりながら這い上がる。
「怪我はない? ……って、あなたはアベルじゃないから大丈夫よね」
「うん。……それより、どうして君が生きているんだい? ボクの記憶が正しければ、君はとっくに……」
少女はここまで話し、何かを思い出したかのように言葉を飲み込んだ。
あの時、彼女は水中で普通に呼吸をしていた。
普通の短生種では、そんなことはあり得ないはずだ。
いや、「あれ」を植え付けられたものなら――水で再生する力があるものなら、それは可能だ。
そしてその人物は、今もまだ生き続けており、獲物を探している。
その、獲物は――。
「そうか……、君が、あの“フローリスト”を……」
「そういったところかしらね」
全ての謎が解けたかのように、少女の目はに集中していた。
一方は、黒十字のピアスを軽く弾き、びしょ濡れになった体をベールで覆い隠した。
しばらくして姿を現したは、すべてがきれいに乾き、
長い茶髪1本1本が月明かりを吸収しているかのように輝いていた。
「お久しぶりね、セス・ナイトロード。……いえ、正確には『初めまして』、なのかしらね」
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