[その必要はない、ハルツーム男爵]




 ディグリス公スレイマンの答えに、バイバルスは少し不満げに顔を顰める。

それに気づいてか気づかないか、スレイマンは言葉を続けた。




[地下牢の監視は、すべてルクソール男爵に委ねている。そなたが手を回す必要はない]

[しかしそれでは、我々の存在する意味がございません]

[そなたの言うことも分かっている。だが、今のこの任務は、暗殺者を先に着きとめたルクソール男爵

の方が適任だと思われる]

[ディグリス公は、我々を信用なさらないというのですか!?]

[そうではない。……悪いが、私は少し疲れた。1人にさせてくれないか?]




 まるで、邪魔者を追い払うかのような対応に、

バイバルスは怒りを感じながらも、一礼だけして部屋を出ていく。



 真っ直ぐな廊下を歩きながら、スレイマンの言葉を1つ1つ思い出す。

そのどれもが侮辱とも言わんばかりのものばかりだ。




[あなたにしては珍しく、かなりご立腹ね]




 そんな彼の耳に届いた声は、彼の怒りを押さえるかのように温かく、優しかった。




[……まだそのような格好でおったのか、卿?]

[心配で見に来たのに、その言い様は何?]




 通常なら、士民服姿の者がここまで立ち入ることは不可能に近いのだが、

どこをどう通ったのか、はこうしてバイバルスの前に立っていた。




[剣を受け取りに来たのよ。ミルカ様が言うには、ここのどこかにあるっておっしゃっていたから]

[これから小官がそなたに届けようと思っていたのだが……、まあ、いいだろう]




 の前を行くかのように歩き出すと、も追いかけて歩き始める。

しばらく無言のまま、ただ歩を進めるだけだった。




[……そなたは、もし自分が侮辱されたら、どう思う?]




 バイバルスが、どこか辛く、悔しそうに呟く。




[怒り狂うか? それとも、酷く落ちこむか?]

[……たぶん、どっちでもないわ]




 の答えに、バイバルスは思わず足を止め、の顔を見る。

真っ直ぐと、どこか筋が通ったような表情に、胸に何かが打ちぬかれたかのような衝撃が走る。




[相手の意見なんて、私にはどうでもいいこと。信頼してくれる人が、変わらず信頼してくれれば、

それでいいもの]

[例え上司が相手でもか?]

[上司だから、その指示に従わなくちゃいけないなんて決まり、どこにもないでしょう?]




 の言葉は、どれも的を射ぬいていて、バイバルスは言い返せなくなっていた。

確かに自分が信頼している人が、そのまま信頼し続けてくれるのであれば、

たとえ相手が上司でも気にする必要などない。

何を自分は、こんなにくよくよしていたのだろうか。




[……礼を言う、卿]

[何のことだか分からないけど、とりあえず『どういたしまして』とでも言っておくわ]




 表情が明るくなった相手の顔を、はかすかにだが微笑み、再び歩き出す。

その後を、バイバルスも力を取り戻したかのようについていった。




[ところで、先ほどまでルクソール男爵がいたようだが、会わなかったか?]

[あら、そうだったの? 私が到着した時にはいなかったわよ。それに、もし近くにいたら、

あんなところで待ってなどいないわ]

[それもそうだな]




 昨夜、叛逆者という仮面を被せられたイオンとエステルが取り押さえられ、

それから数分後に、モルドヴァ公家の廟邸ごと、そこに入った皇帝が爆殺された。

教皇庁にスパイとして侵入していたモルドヴァ公女アルフ子爵も、

皇帝を助けるために炎の中へと姿を消したが、そこから戻って来ることはなかった。

……と、他の帝国貴族達には知らされている。



 ラドゥの行動を封じるために、バイバルスはスレイマンに、

地下牢へ閉じ込められているエステルとイオンの監視役を買って出ようとした。

しかし彼は、禁止軍兵よりもラドゥの方が信頼出来ると言って、

見事に拒否されたのだ。




[スレイマン卿とバルフォン卿が一緒に行動を起こしていたとなると……、かなり厄介ね]

[厄介とは?]

[まあ、いろいろ事情があるのよ。まだちゃんとしたことは分かってないけどね]




 ちゃんとしたことは分かっている。

だが、それを彼らに言うわけにはいかない。

はそう思い、わざと言葉をそらした。



 もしの予想が当たっていたら、ラドゥはきっと本物ではないであろう。

そして、そんな彼を操れる人物は、1人しかいない。




(本当に厄介よ、あなたって人は)




 そんなことを心の中で呟いていると、バイバルスが1つの大きな扉の前で足を止めた。

どうやら、ここが目的地のようだ。




[小官は、中で剣を探してくる。そなたはそこで待たれよ]

[分かったわ]




 扉の奥へと消えていくバイバルスを見送りながら、は扉の横の壁に凭れ、目を閉じた。

闇の先に光が見え、それが徐々に拡大されていく。



 辿り着いた場所は、キエフ候邸内にある客間で、アストとアベルが何かを見つめていた。

アベルの表情からして、が爆殺されたというデマ情報に見向きもしていないようだった。




(よかった)




 心の中でそれだけ呟くと、はゆっくりと目を開けた。

そして天井に広がる壁を見つめながら、声を相手へ飛ばす。




(アベル、聞こえる?)




 返答はすぐに返って来なかった。

それは最初から分かっていたことなので、特に戸惑うことはなかった。




(……さん! よかった、本当に無事だったんですね!?)

(私が死んだら、あなたもただじゃおかないでしょうに)




 が死んだら、アベルにも必ずその反動が起こる。それを知ってはいても、

そしてどんなに冷静な表情をしていたとしても、

やはりアベルはの身が心配だったようだ。




(アストの方はどう?)

(やはり、皇帝が亡くなったことでショックを受けてらっしゃいました。……皇帝は無事なのですか?)

(何とかね。私が助け出したわ。今、ゆっくりお休みになられてる)




 本当なら、彼女は本物の皇帝ではないと言いたいところだが、

今の立場では、下手でもそんなことを口走れる状況ではなかったため、

ここは相手には悪いが嘘の情報を流す。




(でもアストには、出来れば話さないでいて欲しいの。何か、策があるみたいだから)

(分かりました。やってみます。……ところで、エステルさんとメンフィス伯の居所は分かりますか?)

(ええ。でも、私達でも近づけないのよ)

(ルクソール男爵ですか?)

(そういうこと)




 彼はラドゥの本当の姿を知っているのか分からなかったが、あえてここではそれを説明しなかった。

それよりも今は、エステルとイオンを助ける方が先だったからだ。




(どうにかして星皇宮へ侵入したいのですが、どこも厳戒に警備がついていて、中に入れずじまいになって

しまっていて……。何かいい方法はありませんか?)

(いい方法ねえ……)




 アストとしては、共犯だと思われている自分の無罪を何としてでも伝えなくてはならない。

そしてアベルは、捕われているエステルとイオンを助けなければならない。

その2つを同時に解決させるには、

いかなる手段を使ってでも星皇宮へ乗り込むことしか考えられなかった。




(……地下宮殿)

(え?)

(古代ビサンツ帝国の時に、コンスタンティヌス1世が作ったと言われる、

地下宮廷がまだ残っているはずよ)

(ああ、以前古文書で読んだことがあります。……それで辿り着けるのですか?)

(ええ。確か、星皇宮まで繋がっているはずだから、無事に辿り着けるはずよ)

(そうですか。……分かりました。その案を提示してみます)




 アベルの声はここで止まった。

 どうやら、「善は急げ」らしい。




(……待てよ)




 アベルとの通信を終えた後、はふと思い出した。

敵は恐らく、アベルやアストよりも星皇宮への道を知っているに違いない。

となると、今アベルに伝えた地下宮殿のことも、相手はとっくに知っていて、

罠を仕掛けている可能性がある。




[待たせたな、卿]




 扉が開く音ともに、息を切らせながら登場したバイバルスの声で、はすぐに我に返った。

手には、布に包まれた長いものを持っている。




[その様子だと、まだ嫌われているようね]

[よほど、昔のことを根に思っておるのであろう]




 手にしているものを受け取ると、はそれをしっかりと抱える。

服はもうすでに揃えてあるというバイバルスに、

はもう1箇所寄りたいところがあると言い、行き先を変えた。






[ミルカ様に、1つ許可を戴きたいことが増えたのよ]











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