“境の間”に到着するなり、その場に転がっている猟兵と禁軍隊士の死体に、
は思わず顔を顰めてしまう。
“大円蓋の間”に到着した際、声をかけた者に増援を頼むように依頼しなかったことを後悔したくなる。
「キエフ候とエステルは、そのまま奥へと進め。余ともすぐに向かう」
「承知致しました。行くぞ、エステル」
「はい!」
セスの指示で、2人の姿は奥へと消えていき、その場に彼女とだけが残った。
そして姿がなくなったのを察知し、に声をかけた。
「、ボクの頼みを1つ、聞いてくれないかい?」
「頼み?」
「そう。……キミがあれを投与した大体の理由は分かっている。けど、ボクはまだ、
どうしてもやらなくてはならないことがあるんだ。だから……、だからもう少しだけ、
待っていてもらえないかな?」
の体内にある「あれ」の存在理由が何なのか、細かなことまでは分かってはいない。
だが最終的には、その目的を果たされることを、
誰よりもよく理解していた。
だが今はその時期ではない。
「アベルやキミがアイツを許せないのと同じで、ボクもアイツが許せない。もちろん、中にいる奴もね。
だから、事がすべて終わったらボクを……」
「私はそんなこと、一言も言ったことはないわよ」
セスの言葉を横切るかのように、が言葉を発する。
その声はどこか鋭く、だが少し悲しそうにも聞こえる。
「確かに私は、こんな事態を招いたもとの原因を作ったあなたが許せない。けど、
自分から生きることを止めてしまう人間はもっと許せない」
セスを残し、は前へ進み出す。
アストとエステル、そしてアベルの援護をしなくてはならないからだ。
「だからそんなこと、2度と私に頼まないで。ただでさえ嫌いなのに、余計に嫌いになりそうで嫌だわ」
その言葉だけ残し、は床を軽く蹴り、奥へと姿を消していった。
その途中、背中に掲げていた“風を招く者”を壁に立てかける。
この剣の力だけで相手に立ち向かうのは不可能だと思ったからだ。
「そう簡単に嫌うような『人』じゃないでしょうけど、少しの間だけ我慢してもらえないかしら?」
の声に反応するかのように、剣先の石が少しだけ明るく光を放つ。
風がそっと沸き起こり、の体を優しく包み込む。
まるで、彼女の頼みに答えるかのようだ。
「……ありがとう」
それだけ呟き、は再び床を蹴った。
そして目の前に見た光景に、大きく目を見開いたのだった。
「……エステル!!」
エステルの頭上に見えたものは、炎で出来た蛇だった。
それは、新たな生け贄を見つけた悪魔のように周囲を取り囲む炎の群れと化していた。
「くッ!」
懐に隠してある短機関銃を取り出し、レバーを一番奥まで押しつけ、引き金を引く。
そして銃口をその炎の群れへと向けると、
その先に溜まっている直径20センチほどの光を放つかのように引き金を離した。
光は一気に飛び出し、エステルの頭上の炎をかき消す。
これで一安心かと思いきや、再び炎が1つにまとまり、
の方へ向かって飛び始めた。
『!』
「分かってる!!」
短機関銃を再び懐へしまうと、今度は右掌を大きく広げる。
するとその手首から剣先のようなものが現れ、それが長く伸びていった。
細身の剣と化したそれを目の前で回転させると、まるで盾のように炎を弾き飛ばしていく。
そして大きく深呼吸をし、それを飛ばしている相手へ視線を向けた。
「あれが……、バルフォン卿の体?」
『薔薇十字騎士団ディートリッヒ・フォン・ローエングリューンの手により、ルクソール男爵
ラドゥ・バルフォンの血液に発火能力を持たせてある。それに付け加え、“糸”を利用して動き
を操ることを可能にしている』
「それで、あんな火達磨みたいな体になってしまった上、どんなに破壊しても、すぐに元に戻って
しまうわけね。……大したもんだわ」
納得したように言葉を吐いた時、の視線に痙攣するアストの姿が目に入った。
どうやら彼女も、この炎に打ちのめされたようだ。
「アスト!」
床を軽く蹴り、はアストの傍らへ駆け寄る。
命に別状はないが、酷い痙攣状態だ。
「――さん、上!」
「え?」
エステルの声に反応して頭上を見上げれば、先ほどまで形を留めていなかった炎蛇が再び姿を現している。
確かに分散したはずなのに、回復の速さは予想以上に早い。
「何てしつこい奴なの!?」
細身の剣を一度床に置くと、再び懐から短機関銃を取り出し、炎蛇の前に向けた。
周りに飛び散っている瓦礫が短機関銃の周りに張り付き、
一体になって、どんどん大きくなっていく。
そして気がついた時には、
短機関銃はエステルが持つ散弾銃と変わらない大きさへと変化していた。
「はッ!」
引き金を引くと、爆音と共に炎蛇へ向かって発射される。
銃弾が見事に相手の体を貫き、“アルテミス”よりも大きな打撃を追ってその場に崩れていく。
それを確認したのか、銃と一体になった瓦礫が崩れていき、元の場所へと戻っていった。
「さん、大丈夫ですか!?」
「何とか。……えっ?」
の喜びに声は、すぐにかき消されてしまった。
そして次に聞こえた声は、“クルースニク”でディートリッヒに対抗していたアベルのものだった。
「エ、エステルさん、さん、いけない!」
アベルの声に反応して、とアストの元へ駆けつけようとしたエステルが頭上を見上げる。
そこには、が大破したはずの炎の群れが再生して出現していたのだ。
迫る炎に、逃げ出すことすらままならぬエステルの口から言葉にならない悲鳴が毀れる。
「エステル!!!」
「――やむを得ません!」
の叫び声と同時に聞こえたのは、悲痛な顔をした、
だが確かな決意を込めて歪んでいるアベルの声だった。
今の状況で、彼がすることは1つしかない。
だがそれを使うには……。
「アベル! 今の状態じゃ無理……」
思い出したかのように叫ぶの声は、アベルに届くことはなかった。
いや、彼の耳に届かなかったのかもしれない。
体内に潜む、忌まわしき存在達を呼び起こす呪文が、ゆっくりと唱えられた。
[ナノマシーン“クルースニク02”80パーセン――――]
しかし、呪文は完成することはなかった。
それどころか、短い苦痛がアベルを襲い、膝が大きく揺れていた。
「……やばい!」
『キエフ候アスタローシェ・アスランは我が守る。お前はすぐに行け』
「頼んだわよ!」
アストの体をゆっくり床へ下ろすと、はしゃがんだままの体勢で床を軽く蹴った。
頭上にいる炎蛇がそれに気づかないわけもなく攻撃を仕掛けてきたが、
床にぶつかったのと同時に高く跳躍して避けたため、攻撃を受けることはなかった。
アベルのもとへ到着した時には、すでに湖色の瞳を取り戻しており、
大鎌も陽光を浴びた氷細工のように溶け落ちてしまっていた。
銀髪も、もうすでに元に戻っている。
「アベル……、しっかりして、アベル!」
「…………」
「待って、アベル。今すぐに……」
の言葉はここで止まった。
耳元に、聞き覚えのある嘲笑が聞こえてきたからだ。
<……無様だね、神父様。“吸血鬼の血を吸う吸血鬼”――あなた達の力の源は、他ならぬ吸血鬼どもの血だ。
人間の赤血球を溶血性桿状細菌が食らい、そのバチルスを君達の“クルースニク”が捕食する>
アベルは、その吸血鬼の血を摂取したがらないどころか嫌っている。
だからこそ、こういう時になって力を発揮することが出来ない。
「な、なぜ……? なぜ、あなたがそんなことを――」
<知ってるのかって? 見くびってもらっちゃ困るね。他にもいろいろ知っているよ。……例えば、
あなたも“世界の敵”であることとかね>
「……なるほど、いろいろと教えてもらっているようじゃない。余計なことまで話さなきゃいいんだけど」
が1人愚痴た声が聞こえたかどうかは定かではないが、ディートリッヒが再び笑う。
驚愕に顔を染めた神父と、悔しそうに唇を噛み締める禁止兵団副団長を心底楽しげに見やり、
掌に特大の火球を作り出す。
<ここであなた達を始末しちゃうと、腹を立てる人がいるんだけど、もういいや。
……さよなら、アベル・ナイトロード、・>
「“サディストファー”展開!」
『了解した』
アベルを抱えたまま、は黒十字に向けて指示を出した。
目の前に大きなガラスの壁が作られ、攻撃に備えた時、
人の頭ほどあるナバーム弾の青白い光が飛び込んでくる――。
だがそれは、防御プログラム「サディストファー」にぶつかる前に空中で爆散されてしまった。
「その辺で止めておいてくれるかな、騎士団の坊や?」
細かな火の粉となって床に降り注ぐのを見つめたディートリッヒの表情が、初めて深い下に歪む。
振り返ると、そこに現れた新たな影に目を落とす。
<……誰だい、君は?>
「ボク? ボクはただの通りすがりの美少女だよ」
緑の長衣に身を包んだ少女の顔がそう言うと、にっと微笑んで見せる。
その顔に、真っ先に反応したのがアベルだった。
「セ、セス……!?」
「やあ、久しぶり、アベル。……元気してたかい?」
弱々しく呻いたアベルに優しげな声をかける。
その彼を抱えるの目が未だに鋭く輝いているのには、
思わず苦笑してしまいそうになったが。
「さてと、“騎士団”の坊や。……ボク、自分の城で好き勝手されるのは、
もういいかげんに頭に来てるんだけど?」
<“自分の城”……では、君が皇帝ってことかい? ……やれやれ、僕もスレイマンも、
とんだ道化だったみたいだね。その分だと、モルドヴァ公も実は死んでないんだろ?>
「察しのいい子は好きさ。……でも、お遊びの時間はこれまでだ」
まるで世間話をするかのような問いかけに、セスも涼しい顔で答えている。
そんな2人を見つめていたの裾を、誰かに引っ張られるのが分かった。
「……、頼みがある……」
苦しそうに、でも先ほどよりも顔色を取り戻したアベルが、に声をかける。
「セスに……、セスに力を貸して欲しい」
「……何馬鹿なことを言っているの!? 私は――」
「主の俺からの命令でも、聞いてくれないのか?」
鋭く、突き刺さるような視線に、は一瞬びくっとする。
確かに普通なら、主にしか力を貸すことを許されていない存在ではあるが、
その主の命令ともなれば、無視するわけにはいかない。
「……分かったわ、アベル。けど、あの力は使わない。それでもいい?」
「それでもいい。彼女を助けてくれ」
「御意。……“風を招く者”を、ここへ」
『了解した』
の横に出現したのは、先ほど置き去りにしていたあの剣である。
それをしっかり掴むと、アベルをその場にゆっくり寝かせ、セスの方へ向かって走り始めた。
「お願い、1発だけでいいから、巨大なのを出して!」
願いに答えるかのように、剣先の石が大きく光出し、剣の周りに大きな風を発生させる。
その一方で、先ほどの炎蛇が一斉に動き始め、セスの周囲を隙間なく取り囲んだ。
それが時間差のように襲いかかったのと、が“風の槍”を放ったのはほぼ同時だった。
そしてそれと同時に、セスの口から、聞き覚えのある呪文が聞こえた。
[ナノマシーン“クルースニク03” 40パーセント限定起動――承認]
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