下の階へ下りて来たの姿は、軽装だった。
お茶を楽しんでいたミルカとその孫イオン、そしてアストとバイバルスが驚かないわけがなかったが、
その疑問を投げ掛けるよりも、が問う方が早かった。
[ミルカ様、以前使用した身分証明書って、まだありますか?]
[無論、いざという時に取っておいておる]
[だが、そんなものは必要ないはずだ。第一卿は、そなたの同僚達と共に船で帰還――]
[しないわよ]
[……は?]
バイバルスが、まるで何かが抜けたかのように声をあげ、
その横でアストも意味が理解出来ないかのように目を見開いている。
[そんな顔するほど、驚くようなことじゃないわよ、アスト。――1ヶ所寄るところが増えたから、
列車を使おうと思っただけよ]
[では、神父とエステルとは別行動になるのか?]
[そういうことになりますわね、メンフィス伯]
エステル1人にアベルを任せるのは少々心細かったが、
毎年の恒例行事(とはまた違うが)を無視するわけにはいかない。
それで、列車の方が早く目的地へ到着するため、どうしても身分証明書が必要だった。
ただ、それだけのことである。
[そなたの行動は相変わらず読めぬ]
[読めたらつまらないじゃない]
呆れた表情のアストに満弁な笑みを送る。
まるで、何かに勝ち誇ったかのように見えるそれは、どことなくミルカのようだ。
[……本当にミルカ様のご子族なのでは……]
[なーにか言ったかしらー、バイバルス卿?]
[あ、いや、何も……]
どうやら、地獄耳なのも同じらしい。
そんな会話をしながらも、耳をミルカとイオンの方へ向ける。
その内容は今回の出来事のことらしく、強硬派の動きを警戒していたが、
なかなか尻尾が掴めなかったとのことだ。
もし行動を起こすとすれば、イオン達が帰国にタイミングを合わせてくる。
そう予測したミルカ達は、
それを狙って、帝国中に網を張って待ち構えていたとのことだった。
[つまり、我を巻き込むおつもりで全部仕組まれていたと!? ことの最初から!?]
[だから、そう言っているじゃろ? いつから、そんなにお頭が悪くなられたのかや、我が孫殿は……。
おや、それともイオン? まさかそなた、孫の分際で不服があるのかや?]
[い、いえ、そのような……、決して不満などはございませんが……]
青ざめたイオンの顔を見て、は思わず苦笑してしまう。
もし自分がイオンだったら、多分彼と同じ答えを返すことであろう。
[……公爵閣下はあれでもまだメンフィス伯を“いじめてない”つもりでおらせられるのだろうか]
[左様。ミルカ様が本気をだされたら、こんなものでは済みませぬ]
[確かに、あれはまだ序の口ね]
ミルカのことをよく知るバイバルスとが、本人に聞こえないぐらいの声でアストに答える。
メンフィス伯をいびるように命じられたバイバルスの声は、
本来の温厚な口調に戻っていた。
[あれは、ミルカ様にすればただの愛情表現に過ぎませぬ。なにしろ、我が勇猛を持って
鳴る禁軍隊士すら、着席枢密司の元へ使いに出されることを死ぬほど恐れております]
[相変わらず大変そうね。想像すると怖いわ]
[卿の言う通り。もしキエフ候があのお方と口論をなさるのであれば、
事前に覚悟された方がよろしいかと小官は――]
[バイバルス卿]
突然の声に、バイバルスの顔が凍りつく。
それを見たが思わず笑ってしまいそうになったのだが、
災いが自分にも降りかかって来られたらたまったものじゃないため、
何とか押さえ込んだ。
[此度のそなたと禁軍兵団の働き、本当に大儀じゃった。陛下も非常い喜んでおられたぞよ]
[こっ、光栄の極みにございます!]
それなりの体格を誇っていても、ミルカには敵わないかのように、その姿がとても小さく見える。
どこまで笑いを堪えることが出来るのか、は徐々に不安になって来ていた。
[その代わり……、今後、一切の使いはバイバルス卿、そなたにやってもらうことにした。うふふ、
これで毎日、会いえるよの、妾達。……おやおや、かようにも喜んでいただけて、妾も嬉しいわ]
[あの、これは喜んでいると言わないのでは……]
死人のような顔になったバイバルスに、は笑いを苦笑に変え、
イオンとアストは顔を見合わせてため息をついた。
[まあ、とりあえず頑張りなさい、バイバルス卿。大丈夫よ。本当に死ぬようなことを
命じられるわけじゃないんだから]
[そなた、完璧に他人事だな?]
[あら、だって私は、もとからここの人じゃないもの。副団長も、身分を隠すためにして
いたことなのだし。次に会った時には、少し痩せているかしらね?]
[………………]
ますますミルカに似ていると思いながら、まだこれは甘いと感じてしまうあたり、かなり重傷だ。
バイバルスは苦笑しながらも笑顔を向けるを軽く睨みつけながら、
この先の行く末に不安を感じたのだった。
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