「悪いけど、それはパスするわ」
ヴィエナに向かう列車で、は背もたれに身を預けた体勢で答える。
プログラム「ザイン」を経由して入ってきた緊急無線の内容に抗議するかのような口調は、
どこか疲れているようにも聞こえる。
「先日も言った通り、今回の予定は最近決ったわけじゃないの。そう簡単に断れないし、
もし破るようなことをしたら、カテリーナ的にもかなり危険なことだと思うけど?」
『卿の発言は間違っていない、シスター・』
黒十字のピアス越しにいる同僚の声は機械的な声を上げ、
感情などないかのようにへ言葉をぶつけていく。
『だがミラノ公からの命令は絶対であり、最優先事項であることに変わりはない』
「そうかもしれないけど……」
自然とため息が漏れ、は黒く覆われた窓を眺める。
本来ならここから、見事な日没を観測することが出来るのだが、
帝国から出発しているこの列車の窓は、すべて黒く覆い隠されているため、
そんなささやかな願いは叶えられなかった。
「誰が何と言おうと、私は絶対に行かないわよ。第一、アベルとエステルも合流することに
なっているのでしょう? 必要要人はとっくに達しているはずよ」
『……ミラノ公に卿の意向を伝えて来る。卿はそのまま待て』
声はそこで、一旦途切れた。再び大きくため息をつくなり、
は耳元に届けられた命令を繰り返した。
“4日後に行われる慰霊式典に出席するから、可及速やかにイシュトヴァーンへ向かえ”。
――これが同僚である教皇庁国務聖省特務分室派遣執行官HC−V]からの指示だった。
行くのは構わない。
しかし、今すぐは不可能だ。
先約を優先させなくてはならないことなど、
上司である国務聖省長官カテリーナ・スフォルツァも理解しているはずだ。
それなのにも関わらず、相手は変更を要求してくる。
慰霊式典で、何かあるとでも言いたいのであろうか?
『――シスター・。応答を要請する』
数分後、先ほどと変わらない口調で、トレスが再び声をかけた。
「聞こえてるわよ、トレス。どうだった?」
『ミラノ公より、4日後の慰霊式典に間に合えばいいとの了解を得た。よって、
用件が終わり次第イシュトヴァーンへ向かえ』
「ありがとう、トレス。助かったわ」
『無用』
トレスはそれだけ言い残し、完全に通信を終了させた。
それが分かったのと同時に、はピアス越しにいる他の「者」達に指示を出した。
「スクルー、イシュトヴァーンの現状と式典に関する情報を収集して提出して。ザグリーはトレスといつ
でもコンタクトが取れるように、通信網を確保して。あ、あとイシュトヴァーン全域の電話回線もね」
『了解した、我が主よ』
『了解したぜ、我が主よ』
情報プログラム「スクラクト」と通信プログラム「ザイン」がそれぞれ声を上げると、
は再び背もたれも凭れ、ゆっくりと目を閉じた。
よく考えてみれば、いつも車中は睡眠の時間なのだが、トレスの通信でそれが妨げられてしまっていた。
その上、帝国とは正反対の世界――元に戻っただけなのだが――にか体が慣れていなく、
いつも以上に重く感じる。
(これじゃまるで、時差ボケと同じじゃない)
そんなことを思いながら眠りの世界へ入ろうとしたその時、
個室の扉を叩く音がして、重い瞼を渋々と上げた。
低血圧な上、睡眠を邪魔されたのだからいい迷惑なのだが、
無視するわけにもいかず、それに答えた。
〔はい〕
〔アルフ子爵、紅茶をお持ちしましたが〕
〔……どうぞ〕
紅茶が来ているのであれば話は別。
は入出を許可すると、扉から車掌らしき者が姿を現した。
短生種であれば、彼は20代後半ぐらいであろうが、
実際年齢はそれよりも遥かに上なのかもしれない。
〔あと2時間ほどでヴィエナに到着します。着きましたら、待機している駅員にチケットを渡して、
専用出口より外へ向かって下さい。到着予定時間は+22時になると思われます〕
〔分かりました。……私は寝ます。到着30分前まで、この部屋の立ち入り禁止をお願いしても
よろしいでしょうか、閣下?〕
〔はっ。他の者にもそのように伝えておきます〕
〔お願いします〕
敬礼を1つして、車掌は静かに扉を閉めて、部屋を後にした。
前のテーブルに置かれた紅茶に口を運ぶと、はすぐに、ゆっくりと瞳を閉じた。
「ステイジア、何か音楽を流して」
『いいわよ』
脳内にゆっくり流れ出した音楽に身を委ねるように、
はゆっくりと眠りの世界へ入っていった。
だがそれでも、考え事を止めることはなかった。
イシュトヴァーン。
1年前、ハンガリア公ジュラ・タガールが行おうとしていた“嘆きの星”事件が起こり、
のちにイシュトヴァーン戦役という名で歴史に刻み込まれていた。
そしてそこで出会ったのが、今や同僚でもあるエステルだ。
その後の復旧状態がどうなったのか。
事実、は何1つ分かっていなかった。
興味のないことは、それが例え歴史的事件だったとしても、一切情報を収集しないのはいつものことだ。
今回の慰霊式典に参加するように言われ、否応無しに調べざるを得ない状態になったにすぎないだけである。
しかし、そんな彼女でも知っていることが1つだけあった。
それは、元異端審問局局長であり、教皇官房長などの枢要なポストにいたエマヌエーレ・ダヌンツィオが
大司教として、イシュトヴァーンをたった1年で復旧させたことである。
おそらく、数十本の小説と200余りの戯曲などにより培わされた地方での実力と
名声があったからであろう。
にとって、彼はそんなに好印象な男ではなかった。
そう言える1つの理由。
それはダヌンツィオが、特務警察時代の上司だったからだ。
(出来れば顔を見たくないぐらいだけど、そういうわけにもいかなさそうね)
瞳の奥に見えるのは、当時の自分と、そして彼女の直属の上司の姿だった。
彼はダヌンツィオとの意見の不一致から、異端審問局から脱退した。
後にカテリーナの誘いを受け、とアベルと共にAxを結成した。
だが、もうその彼は、ここにいない。
(…………もう寝よう。くよくよ考えても仕方がない)
忘れることのない笑顔を振り払うように、は眠りに集中しようとした。
そして数分後、今度こそ本当に意識が遠のいていったのだった。
(ブラウザバック推奨)