「――エドワード・ホワイト卿がヴィエナで事故死した、という噂は本当だったようね」

「申し訳ございません、陛下」

「お前は謝ることではないよ」




 報告書の束を卓の上に放り投げると、彼女は目の前で悔しそうに俯く大佐を見つめる。

励ますように微笑むその顔に、相手を責める色などなかった。




「これは、私にも責任があること。お前1人のせいじゃない」

「しかし」

「ギルバートが病死し、忘れ形見の子供も死産してしまい、その中、ヴィクトリアが暗殺されてしまった。

そして、その暗殺したと思われるホワイト卿が死亡した今、あたしは誰かを責めるつもりも、

恨むつもりもない」




 視界に入っていなくても、大佐は彼女が悲しみに押しつぶされそうになっていることぐらい分かっていた。

そして、それ相当の罰を受けるべきだと考えていることも見抜いていた。




「私の処罰はどうなったのですか?」

「さっきも言ったように、今回の事件はお前1人のせいではない。よって、今後もいつも通り、

あたしの側にいて欲しい。――けど、政府がそれを許すわけがない」

「もう覚悟を決めています。どんな処罰も受けますうえ」

「そう。……もう、決心してしまったのね……」




 小さくため息をつき、大佐に顔を上げるように言う。

そして、自分の隣に来るように告げると、その場に立ちあがり、彼女の頬を両手でそっと包み込んだ。

それはまるで、母親が娘を慰めるかのように見える。




「お前はあたしのために、いろいろと尽くしてくれた。幼いあたしを、ここまで育ててくれた『母親』

みたいな存在。そして今では、『娘』のようにも感じている。本来なら、あたしの方が、お前に恩返し

をしなければいけないのに、逆に苦しめてしまう結果となってしまった」

「私があなたに仕えるのは当たり前のことです。ですから、どうかお気になさらず」

「……それもそうね」




 頬からゆっくりと手が離れ、外が見える窓辺まで近づく。

曇る空の色は、今の自分の心を移しているかのように鈍よりしている。




「……ローマへ行きなさい」




 突然の言葉に、大佐は大きく目を見開き、彼女の方へ振り返る。彼女はまだ窓から外の景色を眺めていて、

その表情を読み取ることが出来ない。




「政府の奴らは、お前を解雇させるに決まっている。そうなる前に、自分からこの地を離れなさい」

「ローマに行かなくてはならない理由は?」

「ローマの特務警察(カラビニエリ)が、教皇聖下の護衛用特殊部隊を作成中という噂を耳に入れたの。お前なら、

軍の1つぐらいを引きずれる力があるだろうし、教皇のお役に立つ人材にもなれる。それに何より……、

……『彼』のそばに、ずっといられる」




 「彼」。

それは、大佐のこの世で一番大切な人で、護らなくてはならない人のこと。

ローマのとある場所に篭っている相手を、彼女はずっと待ち続けている、という話を、

幼い頃から聞かされていた。




「陛下のおっしゃりたいことが理解出来ます。しかし、私は神に信仰するつもりも、

ローマに行くつもりもございません」

「教皇の護衛人になるから、必ずしも聖界に入らなくてはならないわけじゃない。

お前は『神』を信じない人だからね」

「ご存知ならば、何故そのようなことを命ずるのですか?」




 彼女の言う意味が分かっていても、真意は理解が出来ないようで、

大佐は相手に食い入るように質問をして行く。

そんな大佐に向けた彼女の顔は、とても優しく、温かなものだった。




「……あたしはお前に、今のこの世界を、その目で見て欲しいの」




 窓から離れ、再び大佐の横に立つ。卓の上に置かれた紅茶は冷めていたが、味は落ちることなく、

香ばしい風味が口の中に広がる。




「この国は島国だからということもあり、世間から離れた位置にいる存在。このままここにいたら、

お前は世の中のことを知らないまま、時が過ぎてしまう。――あたしはお前に、そうなって欲しくない」




 自分よりも長い間、大佐はこの国のために尽くしてきた。

そしてそれは、歴代王家や政府にも認められていた。

しかし今回の事件で、その信頼度が失われていこうとし、彼女を追い出そうとするであろう。

だがそれは、逆に世界を知るために、アルビオンを離れる絶好の機会でもあった。




「教皇庁に入れば、いろんなものを見て、いろんなことを感じることが出来る。今のお前に足りないものが、

きっと見つかるはず」

「私に、足らないもの?」

「そう。だから、ローマに行って、特務警察特殊部隊の試験を受けなさい。そして、もっと視野を広げてきなさい。

あたしのことなら心配する必要なんてない。あたしはそんなに、柔じゃないからね」

「陛下……」




 外に出ることが怖いわけではない。現に昔、ローマに住んでいたことがあった。

しかしそれは、今のように文明が発達する前の話で、

今のローマがどうなっているのかなど、大佐は何1つ知らなかった。

いや、興味がなかった、と言った方が早い。



 それに、目の前の相手は平気だと言うが、それをどこまで信じていいのか分からなかった。




「……本当に、お1人で大丈夫なのですか?」

「お前も心配性だね。あたしのことは心配ないと言っているでしょうに。……でも、

1つだけ約束してくれないかしら?」




 紅茶の入ったティーカップを卓に下ろすと、大佐はその中身が空であることに気づき、

すぐにポットから新しい紅茶を注ぎ入れる。

その姿を見つめ、相手は再びそのティーカップを持ち上げ、

並々に淹れられた紅茶を見つめる。




「さすがに、お前の淹れる紅茶が飲めなくなるのは、私にとって辛すぎる。だから、1年に1回、

ここに戻って来て欲しいの。――そうね。1月1日。新年が始まる年がいいわ」

「……まさか、年間行事の1つに取り入れようとしているのですか?」

「分かりが良くて助かるわ」




 満足したように微笑むその顔には、さすがの大佐も完敗だった。

諦めたように大きくため息をつくと、敗北宣言をするかのように相手に告げた。

その声は、どこか力が抜けたようで、先ほどとは違って柔らかい。




「……そこまでおっしゃるのであれば、私はあなたの命令通り、ローマへ行くことにしますわ、

ブリジット」

「ようやく普段のお前に戻ったようだね」

「そこまで言われたら、こうせざるを得ないじゃないですか」

「分かってくれて嬉しいわ」




 なおも満足そうな笑みを続ける相手に、大佐は力が抜けたかのように肩を落とす。

そして再びため息をつくと、扉に向かって歩き始めた。




「それでは私は、早速そのことを政府の馬鹿どもに伝えて来ます。その後、すぐに荷造りをして、

明後日までにここを離れようと思うのですが、それでよろしいですか?」

「ええ。ああ、そうそう。離れる前に、フィーネに紅茶の淹れ方を伝授しておきなさい。

お前の紅茶が美味しすぎて、不味いのが飲めなくなってしまったら大変だもの」

「御意」




 扉の前で頭を下げると、大佐は相手に背中を見せて、扉のノブに手をかけた。

しかし、それはすぐに回されることはなかった。




「――




 名前を呼ばれ、大佐は後ろを振り返る。

 そこに見える顔は淋しそうに見えるが、どこか嬉しそうにも見えた。




「どんなに遠く離れても、ここはあなたの祖国であることに変わりはない。これだけは覚えておいて」






 そう言って、温かく微笑むその顔は、

アルビオン王国海兵隊大佐――の脳裏に焼きついて、離れることはなかった。











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