あれから、もう18年という月日が経過しようとしていた。



 あの時と同じ役割はしないつもりでいたのだが、

上司の命令で、再び秘書的役割を果たすことになったは、

連日の取材や聖務に出る“イシュトヴァーンの聖女”エステル・ブランシェの付き添いで、

多忙な日々を過ごしていた。



 この日、は“剣の館”に作られたエステルの自室にて、新聞各社に送る原稿を仕上げていた。

正確には、エステルが原稿を書き、がその傍らでスケジュールを確認しつつ、

電脳情報機(クロスケイグス)で資料を整理していた。



 何度か伸びを繰り返しながら、エステルは原稿を着々と仕上げて行く。

内容は同じでも、文章のニュアンスを変えて書いているため、予想以上に頭を使う作業だった。



 原稿用紙から目を離し、ふと外を見上げる。

冬のローマの空は青く、地面は太陽の力を借りて、雪がゆっくりと溶けて行く。




「外には何もないわよ、エステル」

 そんなエステルを我に返させたのは、黙々と資料整理をするだった。

その手は電脳情報機(クロスケイグス)から離れることなく、カタカタという音が響き渡っていた。




「それとも、原稿が仕上がって、暇になったの? まだやらなくちゃいけないことはたくさんあるけど」

「え、あ、いえ、その……、……すみません」




 余所見をした自分がいけないのだから、注意されるのは当たり前だ。

エステルは肩を少し落とし、再び原稿へ目を向けた。



 その頃、はエステルのスケジュールをまとめるため、
電脳情報機(クロスケイグス)をせかせかと動かしていた。

画面一杯に映し出されたそれを眺め、思わずため息が漏れる。




(これじゃ、ゆっくり休める日なんて、ないじゃない)




 広報聖省アントニオ・ボルジア枢機卿が提示した予定表の間には休みどころか、休憩時間もない。

これではエステルはもちろん、自分も過労で倒れてしまう。

いや、自分は別に倒れてしまっても代わりはいるが、“イシュトヴァーンの聖女”であるエステルは1人しかいない。

これは直接会って、調整出来るか聞くしかない。

あまりアントニオには会いたくないのだが、交渉しなければいけないとなると、

そうとも言ってられなくなる。




さん」




 呼ばれて顔を上げると、そこには不安そうな顔をしているエステルが立っている。

原稿を手にしているところからすると、どうやら無事に書き終わったらしい。




「あの、原稿、終わりましたが……」

「ああ、ごめんなさい。お疲れ様」




 原稿を受け取ると、誤字脱字と文法的に可笑しいところなどを細かくチェックして行く。

それを修正して、エステルに再び戻すと、エステルはそれを元に清書する。

これが完成すれば、5社分の原稿が仕上がったことになり、とりあえず今日の仕事は終了である。




「……よし。問題なさそうね。ご苦労様」

「お、終わった〜〜〜〜!!!」




 机にうつぶせになるエステルに、は小さく笑い、彼女のティーカップに新しい紅茶を注ぐ。

ついでに、仕事が終わってから出そうと思っていたバタークッキーも一緒に並べる。




「疲れたでしょうから、これを飲んで、ゆっくり休んで。クッキーも焼いたから」

「はい。ありがとうございます」




 顔を上げて、紅茶で満たされたティーカップを持ち上げようとする。

だが、何かを思い出したように、慌ててカップの取っ手部分をくるりと回して、

そのまま持ち上げる。



 聖女になったのだから、マナーはしっかりと身につけた方がいいと言われ、

エステルはの指導のもと、一通りのマナーをしっかりと仕込まれていた。

時々忘れて、に注意されるが、その回数も今では大分減っていた。




「ふふっ、すっかり体に染み込んでいるみたいね」

「あれだけ注意されたら、嫌でも覚えます」

「あら、そんなに厳しかったかしら?」

「まるで、マナースクールにでも通っているかのようでした」




 島国であるアルビオンには、マナースクールがあるという話を聞いたことがある。

立派な女性になるため、社会に通用する女性になるため、多くの女性達がこの門を叩くのだと言う。

も、そのマナースクールに通っていたことがあるのだそうだ。




「私は祖国で仕えていた方に命じられて仕方なくだったけど、今思えば、こうして役に立ててるのだから、

結果的によかったのかもしれないわね」

「祖国? さんの祖国って……」

さんはアルビオン出身なのですよ、シスター・エステル>




 突然の声に、は一瞬目を見開いたが、声の主をすぐに把握し、その声がした方へ視線を移す。




「部屋に入る時はノックするか、声をかけてと言ったでしょう、ケイト?」

<相変わらず、マナーには煩いですわね>

「ケイトは同じアルビオン出身なんだから、なおさらよ」




 立体映像の尼僧――教皇庁国務聖省派遣執行官ケイト・スコットは業とらしく、

しかしどこか楽しそうなに向かってかすかに笑う。

まるで、彼女との会話を楽しんでいるかのようだ。




<こんにちは、シスター・エステル。本当、毎日ご苦労様です>

「こ、こんにちは、シスター・ケイト」




 決まった時間に、ケイトが声をかけるのは習慣になってきている。

あまりアントニオと顔を合わせたくないというのために、ケイトがその仲介役を買って出てくれたのだ。

ケイト自身も、出来ることなら避けたい役割なのだが、

連日この“剣の館”と教理聖省との間を行ったり来たりしている

の負担を少しでも軽くしたかったのだ。



 エステルは毎日、決まった時間に声をかけるケイトに、何故かいつも緊張していた。

しかし相手の尼僧は、そんなエステルを和らげるかのように笑顔を送る。




<聖務の方は順調に進んでいるようで、あたくしも自分のことのように嬉しいですわ>

「いえ、あたしがここまでやれるのは、さんのお蔭です」

「あら、私はただ――――」

<「命じられるがままにやっているだけ」――ですよね?>

「本当、あなたにはお手上げだわ」




 降参するかのように、は両手を上げる。

ケイトは満足そうに微笑み、他の尼僧が運んだと思われるワゴンに乗っているティーポットを、

同じくワゴンに乗っているティーカップへ注いだ。




「この香りは、ミントね」

<はい。ダージリンと一緒に淹れてみましたの。お口に合うか分かりませんが>

「ケイトが淹れたものなら、何でもOKよ」




 一口含めば、ミントの爽やかな香りが広がり、頭がスッキリとする。

奨められたエステルも一口飲むと、疲れが一気に吹き飛びそうだった。




「美味しい! さんの紅茶も美味しいけど、シスター・ケイトのハーブティーもとても美味しいです」

<ありがとうございます、シスター・エステル>




 ずっと立ちっぱなしだったがエステルの向かいにある椅子に腰をかける。

外は太陽が燦燦と輝き、とても眩しい。




「あ、話が戻るのですが、さんの祖国がアルビオンだというのは、本当なんですか?」

「ええ。私はアルビオンで長い間、ある貴族の秘書兼護衛役として働いていたことがあったの」

<貴族と言っても、さんの場合はクラスが違いますけど>

「それ以上言ったら、“アイアンメイデンU”のプラグを外すように、ルフィーに言うわよ」

<もし外して、あたくしの身に危険が生じたら、罰せられるのはさんですわよ>




 が勤めていたという貴族のことが気になったが、本人が話したくなさそうだったので、

エステルはこれ以上の散策をするのは止めた。

それよりも、がアルビオン出身だということに、どこか親近感が沸いていた。

それは、自分の両親がアルビオンだということを、

幼い頃からヴィテーズ司教から聞いていたからかもしれない。




『話し中、失礼するぜ、我が主よ』




 耳元で聞こえた声に、はティーカップをテーブルに置く。

声の主に返事をするかのように、黒十字のピアスを軽く弾く。




「どうしたの、ザグリー?」

『アルビオンから通信が入ってる。――緊急事態だって』

「緊急事態?」




 通信プログラム「ザイン」の言葉に、は顔を顰める。

席を立ち、2人に声が届かない場所まで移動すると、

再び黒十字のピアスを弾き、そこに向かって声をかけた。




「緊急事態って、どういう意味よ?」

『事情はメアリ・スペンサー海兵隊大佐に聞くといいよ。繋がっているから』

「分かった」




 1つ頷き、一度回線が途切れる。

しかし、別のところから回線が復活し、そこから懐かしい声が聞こえた。




、聞こえる?』

「聞こえてるわよ、メアリ。どうしたの? 直接あなたが、私に通信するだなんて。

珍しいこともあるものね」

『今はそんなことを言っている場合じゃない』




 相手の声からして、何か慌てているように聞こえるのは一目瞭然だった。

不安が、さらに大きくなる。




『事は一刻を争う事態になっている。出来るだけ早く、あなたにはロンディニウムへ来て欲しいの』

「それじゃ、理由がわからないでしょう。一体、何が―――」

『お倒れになられたのよ』

「倒れたって、誰が――」




 の言葉は、そこで途切れた。

体も、目の動きも、すべてがそこで止まった。




「……まさか、変な冗談を言おうとか、してないでしょうね……?」

『私が嘘でもつくと言いたいの?』

「そう思いたくないから聞いているじゃない! 様態は!?」

『まだ意識はあるけど、いつまで持つか……』




 言葉が言い終わる前に、の足は前に出ていた。

遠くで見守っていたエステルとケイトが呆然としていることを、

気にしてないようだ。




さん! 一体、何が……」

「ケイト、2日間だけでいい。エステルの補佐をしてあげて。緊急時になったら、

すぐにザグリーに連絡を入れて」

<ちょ、ちょっとお待ち下さいませ、さん! 一体、何が―――>

「あの方がお倒れになったのよ!」

<あの方?>




 ケイトが疑問そうな顔をしたのだが、

の言葉の意味が分かったのか、すぐに驚きの表情に変わった。




<まさか、あのお方ですか!? まだお倒れになるのは早すぎます!!>

「だから大変なのよ! お願い、ケイト。状況が分かったら、あなたとウィルにはすぐに教えるから!」

<分かりました。あ、さん! ローマ国際空港のモーフィス艦長にお願いしますか?>

「あ、そうね。緊急事態だからと伝えて、すぐに席を確保して」

<了解しました。どうか、気をつけて>

「ありがとう」






 事の状況が把握出来ないかのように目を白黒しているエステルと、

 心配そうに見つめるケイトを背に、

 は勢いよく、部屋の扉を閉めたのだった。











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