「宮殿に入る際には、必ず武器を持参すること」。
だが、先日のイシュトヴァーンで仲間により破損された短機関銃が完成していないため、
仕方なく持参した“銃を纏う剣”が、走るたびにカタカタと音が鳴った。
廊下を走る音に、歩く者達の足が自然と止まる。
接近してくる人物の顔を見るなり、ある者は驚きの表情を見せ、
ある者は安堵とも言える笑みを浮かべる者もいた。
ロンディニウムにある、バッキンガム宮殿。
国王陛下であるブリジット2世がいるこの屋敷は、
にとって昔の「仕事場」であり、「実家」でもあった。
本当なら懐かしみ、窓から覗く景色を眺めているのだが、今はそんなことをしている暇などなかった。
目的の部屋に登場し、扉を何度もノックする。
しかし、返事が返って来ない。
「陛下! 陛下!! 返事をして下さいませ、陛下!!」
何の反応もないことに、は珍しく苛立っていた。
このままじゃ埒があかないと、扉のノブに手をかける。
そして勢い良く捻り、扉を開けようとする――。
「陛下はそこにはいない、」
が、扉が開こうとするのと、背後から声をかけられたのはほぼ同時だった。
ノブにかけていた手をそのままに振り返れば、顔馴染みの人物が真っ直ぐ立っていた。
「メアリ……!」
「予定よりも早い到着だったわね。席を確保するのだって大変だったはずでしょうに」
「私がそんなことで梃子摺るとでも思って?」
アルビオン国王海兵隊大佐メアリ・スペンサー。
がこの宮殿を去ってから大佐になった彼女は、が最後に知り合ったアルビオン人であり、
幼少の頃からの付き合いだった。
がここを離れることを知った時も、
幼いメアリは、彼女の後ろ姿をずっと見つめていたのだと言う。
「で、陛下は? ここじゃないとなると、どこに?」
「別室に設けた寝室にいる。ここだと、無駄に部屋が広くて落ちつかないから」
メアリが歩く後ろを、も追いかけるように歩き始める。
歩きなれているはずなのに、長く感じてしまうのはどうしてだろうか。
「ローマでの仕事が何かと大変だというのに、呼び出してしまってごめんなさい」
「何を言っているの。緊急事態なのだから、当たり前でしょう」
申し訳ないように言うメアリに、は少し苛立ちながらも、安心させるかのように答える。
国のトップであり、自分が仕えていた人物の危篤を知り、
飛んで行かない者などいないと思っていたからだ。
「お倒れになられたってことは、それまでは元気だったの?」
「ええ。即位50年記念祭――あなたが諸事情があって参加出来なかった――のパレード中にお倒れになられたの。
原因は脳溢血。ここに運び、横になった時には、既に重体になっていた」
「それじゃ、意識ももう……」
「いや、少しの間なら話は出来る。けど侍医が言うには、月を跨ぐのは無理かもしれないとのことよ」
「そんな……」
今年の1月、いつもと変わらず、はこの地を訪れ、ブリジットに会っていた。
その時は何の変わりもなく、いつもと変わらない笑顔で、他愛のない会話をしては笑っていた。
それからまだ2ヶ月ほどしか経過していないというのに、
突然の展開に、は疑問を隠せないでいた。
(誰かが、何かを仕掛けた? いや、そんなことを出来る人物など、この中にはいないはず)
投げかけた疑問も、すぐに消し去った。宮殿に仕える者が反乱を起こすわけがないことを、
一番よく知っているのはだった。
そして、今前を歩く人物にも、そんなことをすることなどあり得ない。
いや、あり得るかもしれないが、違うと願いたい。
「ここよ、」
ある扉の前に止まったメアリよって、は我に返った。
到着したところは、本来の部屋からそんなに離れていない、
しかし日当たりのいい場所に設けられた特別室だった。
扉のノブには、大きく「KEEP OUT」と書かれた札が吊るされている。
「入っても大丈夫なの?」
「あなたは別よ。きっと、彼女が一番会いたいだろうから」
「ありがとう」
軽く微笑み、扉を軽くノックする。
反応はないが、きっと眠っているのだろうと思い、はゆっくりと扉を開けた。
そっと扉を閉め、部屋を見つめる。
確かに自室よりも狭いが、一般市民からしてみれば、これでも広いぐらいだ。
その中心に、大きなベッドが備え付けられていた。
ゆっくりとベッドに近づき、横になっている人物の顔を見て、は大きく目を見開いた。
彼女の知っている者と別人かのようになってしまった顔に、
言葉を失ってしまう。
「どうして、こんなことに……!」
脳溢血で、顔が変貌するなど聞いたことがない。
これは、単なる病気ではないことを、はすぐに察知した。
本当なら、すぐにでも原因を追求したいところなのだが、アルビオンを離れる際に、
の後任に選ばれたアルフォード・フィリップ海兵軍大佐――メアリの前に大佐だった――から、
今後のアルビオンの事件には首を突っ込むなと言われて来ていた。
それが例え、「娘」のように、そして「母」のように慕ったブリジットのことであっても、
勝手に行動を起こすことを認めなかった。
Axの関係以外では、は全くの「部外者」だったのだ。
とりあえず、はベッドの横にある椅子に腰掛ける。
サイドテーブルには、水分補給用の水が入ったポットと、
彼女が好きな紅茶が入ったティーポットが置かれていて、中身がすでにぬるくなっており、
時間の経過を伺わせた。
ティーポットを持ったまま、は椅子から立ち上がり、近くにある水場で中身を全て出した。
一度部屋を出て、近くにいたメイドに熱いお湯をお願いすると、
相手は声をかけられた人物に驚きながらも言われるがまま、
ポットにお湯を淹れて、に手渡した。
再び部屋に戻ると、肩にかけていたナップから、1つの缶を取り出した。
少しでも彼女に飲んでもらおうと思い、
ここに来る前にフォートナム&メイソンで購入したダージリン・アールグレイだ。
蓋を開けて、熱いポットの中にティースプーンで2杯入れる。
近くにある砂時計を反対にすると、中に入っている白い砂がさらさらと下に落ちて行く。
それをしばらく眺めた後、は再び、ブリジットの顔を見つめた。
そっと手に触れ、両手で強く握り締める。
目を閉じ、目の前に広がる暗闇を見つめる。
その先に光が見え、それが徐々に大きくなって行く。
やがて、視界が開き、目の前にたくさんの人集りが見える。
その人をかき分けながら前に踊り出ると、目の前に見覚えのある馬車が走って来た。
馬車に揺られながら手を振るのは、
この日――即位50周年記念祭の主役でもあるアルビオン国王陛下ブリジット2世。
つまり、今ベッドで眠っている人物だ。
のよく知るその顔からして、やはり今の状況が普通じゃないということが頷ける。
笑顔で市民に手を振る彼女が、とても逞しく見える。
そしてこれが最後――そう思いたくないが――だと思うと、
胸が閉めつけられる想いに駆り立たされる。
だが、その逞しい姿が突然崩れたかのように、体が大きく前に倒れた。
意識を失ったかのように崩れたことで、市民が悲鳴を上げ、馬車が急停車をする。
付き添いでいたメアリが慌てたように彼女を抱き起こし、
軍の者が必死になって、群がる市民を取り押さえていた。
どこからともなく侍医が現れ、彼女をすぐに馬車から下ろすように命じる。
そのまま担架で運ばれ、そして―――。
そしてそこまで見たのと同時に、握っていた手に違和感を感じ、
はすぐに目を開けた。
サイドテーブルの砂時計はすでに全部落ちてしまい、次の出番を待っていた。
本当ならすぐにリーフを取り除くはずのが、
それをしようとしないのには理由があった。
握り締めていたブリジットの手が、かすかに動いたからだ。
「陛下……?」
小さな声だったが、相手には十分聞こえたようで、今まで閉じていた目をうっすら開けた。
そして手を握っているに気づいたのか、顔がそちらにゆっくりと動いた。
「………………………………、かい………?」
「はい。……よかった、目が覚めて」
ホッとしたようにため息を漏らし、一度手を離すと、
そこでようやく、ティーポットのリーフを取り除く。
近くにあったティーカップに注げば、柔らかい香りが部屋に広がって行く。
「ダージリン・アールグレイ……、あたしの好きな紅茶だね……」
「存じております。お飲みになれますか?」
「いや、今のあたしには……、……もう、そんな力はない。香りだけでも、十分満足だよ」
力のないその声に、は胸が苦しくなる。
少しでも和らげさせたいのだが、
そんなことをして喜ぶような相手じゃないことも、はよく知っていた。
病気はそんなに簡単に治すものじゃないと、昔、よく言われたからだ。
「お前がここに来た、ということは……、メアリが知らせたのかね?」
「はい。先ほど、ローマで」
「それは、大変だっただろうに。迷惑をかけたね」
「私の心配より、今はご自分の心配をされる方が先ですわ、陛下」
こんな状況まで他人の心配をするブリジットに、は少し呆れたようにため息をつく。
しかし、いつもの彼女らしい言葉に、どこか安心しているところもあった。
「……あたしはもう、駄目かもしれない……」
天を見つめ、ポツリと呟く。
その言葉に、はすぐに反論しようとしたが、それを胸に押しつけた。
「15歳で即位してから、あたしは休むことなく、国のために動いてきた。……あたしの役目が、
終わろうとしているのだよ」
「確かに即位したのは早かったですが、いなくなるのも早過ぎです」
「それだけ、たくさんの力を消耗した、ということだよ」
どこか納得したかのようにも見えるその表情に、は何も言葉を返すことが出来なかった。
ただ、彼女の言うことを、黙って聞いているしかなかった。
「……あたしがいなくなれば、後継者探しで世間が煩くなる。だがその前に、隔離地区が何らかの動きを見せるかもしれない」
隔離地区――イーストエンドに存在する地下都市にいる者達のことを、
誰よりもよく知っているのはだった。
だからこそ、このような話が打ち明けられるのだと、彼女は心の中で納得した。
「もし彼らが反論した場合、お前にそれを止めて欲しい。それが出来るのは、長年、
彼らと共に生きてきたお前にしか出来ないことだ。分かるね?」
「ええ、分かりますわ、陛下。――とにかく、今はゆっくりお休み下さいませ。
体力が消耗してしまいます」
徐々に意識が遠のいているのか、瞼が閉じそうになり、無理やり開けていようとしている。
それを見かねたが、布団をしっかりとかけ直す。
「よ」
「はい?」
「………………お前にも、いろいろ迷惑をかけてしまったね………………」
「その言葉を言うのは早過ぎます。陛下には、まだ頑張ってもらわないといけないんですから。
せめて、私があなたの基に戻るまでは生きて下さい」
「そうだね……。約束、しているものね……」
ゆっくりと瞼を閉じ、ブリジットは再び、深い眠りへと入っていく。
それを確認してから、は彼女の額にそっと唇を落とし、その場にゆっくり立ち上がった。
ティーポットの蓋を開けて、サイドテーブルの上にコトッ置く。
アロマテラピーのように、ダージリン・アールグレイの香りを部屋中に広げるためだ。
「お休みなさい、ブリジット。また来ますわ」
その願いが叶えられることがないということを知らないは、
ブリジットに笑顔を贈り、部屋を後にしたのだった。
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