セント・ジェイムス・パークの中を、は1歩1歩噛み締めながら歩いていた。
その横には、を見送ると言うメアリが並んで歩いていた。
「陛下の様態は、もうよくならないの?」
「断言は出来ないけど、確立は少ないと言っていた。……政府はもう、諦めているようだけど」
「相変わらず、困った奴らね。自分達がこの国を動かしているわけじゃないのに」
ため息交じりに呟くの前に、メアリがある箱を目の前に突き出す。
何が入っているのかなど、問わなくても分かっていたため、は首を左右に振った。
「メアリ、煙草は随分前に――」
「知っている。けど、1本吸っても、そう罰は当たらないと思うけど」
相手の誘いに、はため息1つで返し、箱の中から1本取り出した。
差し出されたマッチで火を灯すと、少しだけ吸いこみ、そして口から紫煙を吐き出した。
「禁煙したのは、やはり今の仕事のため?」
「そういうわけじゃないけど、何となく止めたくなったから止めたの。――ある人のお蔭なんだけど」
「例の探し人だった人?」
「そういうこと」
ローマに昔、自分が命に変えてでも護ると約束した者がいる
――幼い頃から、メアリはその話を聞かされていた。
そして、彼女の背後に動く「彼」達のことも。
「プログラム達は元気なの?」
「相変わらず、我が侭言い放題で困ってるわ。けど、彼らがいなくなったら、
私も生きてはいけないから、半分諦めてるところよ」
「『プログラムによって育てられた人間』。――あなたがここを離れて18年立っても、
同じ容易でいられる理由は、ここにあるものね」
「……まあね……」
が長く生き続けられる理由。
それは彼女が、無数の電脳知性やプログラムとの融合を果たしているからだと、
宮殿内で言い伝えられていた。
しかし、それは全くの事実ではない。
本当のことを知る人物はただ1人。
この国の頂点に立つ人物、ブリジット2世女王陛下だけだった。
「私は長年に渡って、このアルビオンを見てきた。どんな窮地に立っても、それを打開し続けて来た。
――18年前のあの事件さえなかったら、私は今でも、陛下の側にいることが出来たでしょうね」
「“ホワイトの乱”、か……。私もあなたが隊を降りたと聞いてショックだった」
「私は逆に、あなたが軍に入ったことの方がショックよ。……あなたには、普通の生活を送って欲しかったのに」
としては、メアリには他の市民と同じように、普通に生活して欲しかった。
亡き皇太子であるギルバートと、
彼の愛人である先カルスレー子爵夫人ハリエットの間に生まれた彼女が
庶子という理由だけで見放された存在だった。
そんな彼女を、影で支え、面倒を見ていたのは、ここにいるだった。
「いつかは陛下にバレる時が来る。――そう思ってた。陛下に仕えている私が、
庶子であるあなたのところへ出歩いていただなんて、政府の奴らに知られたら、
ただじゃすまなかったから」
「あなたには、本当に感謝しているわ。お蔭で、こうして国のために身を投じることが出来た」
「だから私は、それを望んでいなかったと言っているでしょう?」
「私もアルビオンの人間であり、王家の血を引くもの。だから、当然の行動だったのよ」
短くなった煙草を、近くの灰皿に捨てると、メアリはの前で敬礼をする。
どうやら、見送りはここまでらしい。
「それでは、私はこれで。何かあったら、またすぐに伝えます、・元アルビオン王国海兵隊大佐」
「見送り、御苦労だったわ、メアリ・スペンサー現アルビオン王国海兵隊大佐」
敬礼してメアリにそれを返すと、彼女は敬礼をやめ、の背を向けて、王宮へと戻って行った。
しばらくそれを見送ると、は煙草を近くの灰皿に捨てて、再び歩き始めた。
セント・ジェイムス・パークを通りすぎ、
バードケージ・ウォークからグレイト・ジョージ・ストリートへと変わって、ウェストミンスターに入る。
右側に見える国会議事堂に隣接されたビッグ・ベンが、
時を知らせるかのように、重い鐘を響かせる。
国会議事堂の中に、自分のことを知る人物は何人残っているだろうか。
政府の我が侭に振り回されたあの頃が、少しだけ懐かしく感じる。
今も、その我が侭振りは発揮されているのだろうか。
少しだけ不安になりながら、はその場を後にした。
ウェストミンスター橋の手前にある階段を降り、テムズ川の川沿い道を歩く。
エンバンクメントとの中間地点で足を止めると、
左側にある腰の位置辺りの高さの塀に座り、川を眺めていた。
よく考えれば、こうしてのんびりと過ごすのは、本当に久しぶりだった。
ローマではエステルのことを“聖女”だと騒ぎ立てる連中達に構いっきりで、
1人の時間がちゃんと取れていなかったからであろう。
こうしている時間の大切さを、しみじみと感じてしまう。
カーキーのピーコートのポケットに手を入れると、そこから1つの箱が姿を現す。
箱を開け、1つの棒を取り出すと、それを口に咥えて、
同じポケットから出てきたジッポで火を灯した。
煙草を完全に止めたわけではない。
現に、アルビオンに戻ると、必ず1本は吸ってしまう自分がいる。
この地で懐かしさを感じるのに、煙草は秘術品だからだ。
ジッポに浮かぶ公証。
昔、女王であったヴィヴィアンに贈られた品なのだが、
使い込んでいるわりには、錆1つなく、光り輝いていた。
紫煙をゆっくりと吐きながら、は空を見上げる。
アルビオン独特のどんよりとした曇空が、自分の心を映し出すかのように見えてしまう。
それぐらい、ブリジットの危篤は衝撃的だった。
(あの顔、何かに毒されてるようだった。普通じゃ絶対にあり得ない)
65歳という年齢に反比例するかのようなあの顔を、は脳裏から離すことが出来なかった。
追求しようとすればするほど、
どんどん闇に落ちて行く感覚に陥りそうで、思わず頭を左右に振る。
(いけない。ここで深く考えていたら、彼女に何と言われることか……)
そう思い、煙草の灰を近くの灰皿に落とした時だった。
揺ら揺らと上に上がっていた紫煙が、真っ直ぐに伸び、
まるで何かに引きつけられるかのように伸び始めた。
は煙草を引っぱるかのように横へ動かすと、
約5メートル離れた位置の壁から、紫煙がロープのように巻きつけられた腕が姿を現した。
「あまりこそこそしないで、表に出たらどう、ヴァージル?」
相手の正体が分かっているらしく、は半分ため息交じりで言う。
言われた相手は、断念したかのように、彼女の前に姿を現した。
黒のフード付きのコートを深くかぶり、全身を包帯で巻きつけられている。
唯一巻かれていない目も、漆黒のサングラスをかけているせいで、何も見えない。
周りに見つかれば、間違いなく不審者として取り押さえられるのではないかと思われるその相手に、
は動じることなく、紫煙のロープを取り解くかのように指を鳴らした。
うっすらと、空気に溶け込む紫煙を見つめた後、
捕らえられた者はの方へ向かって歩き始めた。
そして、何も言わずに、の前に膝まついた。
「久しぶりだ、」
「本当ね……と、言いたいけど、その膝まつく癖だけは直した方がいいわよ。私はもう、
この国とは無関係になったのだから」
「たとえそうであっても、私にとっては、君は『恩人』であることには変わらない」
その場に立ち上がった者は、フードに包帯で巻かれているため、
性別がはっきりとは分からなかった。
声も中性的で、男とも女とも取れる。
だが、は相手の口調で、性別も、そして何者かもすぐに分かっているようだった。
「陛下の様態は?」
「それは、あなたが一番よく知っていることじゃなくて?」
「陛下がお倒れになってから、私は王宮への出入りを禁止されている」
「禁止? どうして?」
「原因ははっきりしていない。――きっと、お倒れになられた理由が、私にあるのだと思っているのかもな」
フードの男――マンチェスター伯ヴァージル・ウォルシュ。
長年、情報陛下に仕えてきた彼が犯人呼ばわりされてしまうのには理由があった。
しかしには、それすら納得がいかなかった。
「あなたが例え長生種だからと言って、周りがそんな簡単に背を向くとは考えられないけど?」
「いや、私は昔から、種族のせいで見放された存在だった。君は考えが甘すぎるのだ」
「そうかしら? 少なからず、私ならそんなことしないわ」
「君はそうしなくても、メアリ・スペンサーなら、間違いなくこの手段を取る」
突然登場した人物の名に、はかすかに目を見開いた。
それに気づいてか、それとも気づいていないのか、ヴァージルは言葉を続ける。
「後継者がいない今、スペンサー大佐は教皇庁と手を組む絶好のチャンスを手に入れた。
だが、手を組むには、我々の存在は邪魔でしかない」
「だから、あなたを王宮から追い出した、ということ? あり得ないわ」
「君はスペンサー大佐のことを知らなさ過ぎるのだ」
ヴァージルの言葉に、真っ向から反論することが出来ない。
現に、がよく知るメアリは幼少の頃だけで、今現在の彼女のことはよく知らないからだ。
しかし、もしそうだとしても、にはメアリがそんなことをする人物ではないと確信していた。
いや、確信を持って、そう言いたかった。
『帰還時間3時間前だ、我が主よ。すぐにヒースロー国際空港へ向かえ』
反論する言葉を失っていたところに、タイミング良く声をかけたのは、
情報プログラム「スクラクト」だ。
はそっと胸を撫で下ろし、心の中で彼に礼を言うと、煙草を近くの灰皿に押しつぶした。
「そろそろ出発しないといけないから、今回は見逃してあげるわ」
「いいだろう。だが、私の発言が正しいことを、君はすぐに知ることになる」
「そう? なら、私はそうならないように祈るわ」
塀を軽く飛び越え、は道路側へと歩いていく。
指を鳴らせば、見なれた自動二輪車が姿を現し、
主の到着を待ち構えているかのようにエンジンを響かせていた。
「See you, Virgil. Take care yourself」
相手に届くか届かないかぐらいの声でそう言い、はテムズ川を後にしたのだった。
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