「異端審問官を?」
「そうだ」
ローマに戻って来た翌日、
教理聖省長官フランチェスコ・デ・メディチ枢機卿に呼び出されたは、
彼の発言に顔を顰めた。
予想通り、アルビオン王国からの来訪以来があり、
カテリーナの代役にエステルが向かうように指示されたところまではいい。
も一緒に同行することが出来、その結果、聖下の護衛も出来るから一石二鳥だ。
しかしフランチェスコは、聖下には異端審問官を同行させると言い出したのだ。
「お前とて、聖下と“聖女”の2人の護衛をするのは神経を使うことだろう。それを気遣ってのことだが、
何か不満でもあるのか?」
「いえ、異端審問官が同行してくださるのは、私としても助かります。メディチ猊下のおっしゃる通り、
私1人で2人の護衛は少々過酷なものがあるので。――しかし」
手渡された資料から目を離し、目の前にいるフランチェスコに移動する。
まるで、影で何を企んでいるのか、模索しているようにも見える。
「しかし、その異端審問官を3人も同行させるのは、少々多いのではありませんか?
私の代わりに聖女の護衛もして下さるのであればいいとして、聖下だけでしたら、
1人でも十分じゃないかと」
「アルビオンは伝統的に教会から距離を置いていて、教皇庁に対して反抗的なことをよく知っている
のは君でショ?」
背後から聞こえるのは、ソファに深々と座り、
髪の枝毛を気にしている広報聖省のアントニオ・ボルジア枢機卿だ。
「そうなると、もし何らかのテロが発生した時、君と異端審問官1人じゃ、押さえることなんて到底無理な話。
だったら、人を多くして、ガードを硬くすれば、聖下も聖女も安心出来るはずだヨ」
アントニオの言葉に、は反論することは出来なかった。
それは自分の祖国がアルビオンで、
当時の彼女は、神の存在などどうでもいいと思っていたからだ。
「それに、君の護衛も必要だと思うんだよネ」
「私の、ですか?」
「そう。アルビオン王国海軍大佐だったキミが、今じゃ教皇庁でシスターとして働いている。
今までキミに指示していた人達が、何らかの反乱が起こるかもしれない」
「しかし、私が教皇庁に入ったのは、国王陛下であるブリジット陛下のご命令もあったからで……」
「だからって、何もないだなんて、考えられないでショ? ボクとしても、キミが危険な目に合ったら、
キミの紅茶が飲めなくなっちゃうし、デートも出来なくなっちゃうからね」
「誰もあなたと、デートの約束なんてしていませんけどね」
最後の言葉に思わずため息を漏らしたが、反撃する言葉がなくなり、はそのまま黙ってしまう。
きっと、これ以上言っても、また言い返されるだけだと判断したからだ。
「ボルジア枢機卿の言う通りだ。、ここは大人しく、我々の指示に従ってもらう。お前は“聖女”
の秘書をしているだけでいい。身が軽くなることには変わりはないはずだ」
「…………承知、致しました」
1つ頭を下げ、は扉へ向かって歩き出した。
ゆっくりと扉を開け、その奥へと消えたあと、大きく1つ、ため息をついた。
「……どう思う、ステイジア?」
『おそらく、相手の目的は隔離地区にあると思うわ』
「隔離地区に? ……ああ、なるほど」
教皇庁に敵である吸血鬼が逃げ隠れしている場所。
それが、アルビオンのイースト・エンドに存在する隔離地区だ。
そこを殲滅させることが目的だとすれば、異端審問官を3人も動員させる理由も分かる。
「けど、どうやって知ったの? 隔離地区は、国家機密になっているはずよ」
『誰かが情報を横流しにした――、というのも考えられるわね。調べてみる?』
「念のために。あと、陛下の様態も引き続きお願い」
教理聖省宮殿を後にし、サン・ピエトロ広場を横断する。
284本の柱の上には、140の歴代の教皇と聖人の像があり、広場の中心に立てば、
大きな“気”を体中に受け、まるで力を与えられているかのように体内へと入っていく。
ローマに来て、最初に好きになった場所がここだった。
足を止め、ゆっくりと目を閉じる。
“気”を感じながら、脳内に浮かんできたのは、
ベッドに横たわり、変わり果てた姿になっていたブリジット2世の姿だった。
力なく握る手が、鮮明に蘇る。
昔だったら、力強かったはずのその手を、もう感じることが出来なくなろうとしている。
出来ることなら治してあげたい。
しかし相手は、それを強く拒むことも分かっているため、何もすることが出来ない。
見守ることも、支えることも、出来ない。
押さえていたはずの涙が、自然と頬をつたリ、地面に落ちて行く。
笑顔を思い出そうと思えば思うほど、涙が溢れ出し、止まることなく流れていく。
もし本当に神が存在するのであれば、彼女を助けて欲しい。
もし本当に神が存在するのであれば、彼女の笑顔を見たい。
もし本当に、神が存在するのであれば……。
涙を拭い、再び歩き始めるかのように振り返る。
しかしその足は、自然と止まってしまった。
異端審問局所属を示す尼僧服に身を包んだ尼僧が、をずっと見つめていたからだ。
「なるほど、あなたも涙を流す時があるのですね」
「……パウラ……」
教理聖省異端審問局副局長シスター・パウラ・スコウォースキー――通称“死の淑女”は、
表情1つ変えずに、の顔を見つめている。
そしてそんな彼女に、今の姿を見られたことで、は少しだけ後ずさりした。
「誰も、今の姿を報告するとは言っていませんから、警戒する必要もありません。それとも、
誰かに伝えて欲しいのですか?」
「別に、それはないけど。……どこかに出かけてたの?」
「サンタンジェロに、メディチ猊下から頼まれていた資料を届けに行ってました。どうやらあなたは、
我々の建物へ出向いた帰りのようですね」
「私はメディチ猊下に呼ばれていたのよ。……用は終わったから、これで失礼させていただくわ」
「待ちなさい、」
少し焦ったようにその場を立ち去ろうとするが、簡単にパウラに止められてしまう。
足を止めて、そのまま煤みたい気分だったが、相手がそれを許すはずがない。
仕方なく足を止め、ゆっくりと振り返る。
「何?」
「あなたがどんな理由で、そのような顔を見せたのかは分かりません。しかし、
現実はしっかりと受け止めなくてはなりません」
「あなたに言われなくても、それぐらい、分かっているわ」
「それもそうですね。――それでは、私はこれで」
「ええ。――パウラ」
今度は逆に、がパウラの足を止める。
どうしても聞きたいことがあったからだ。
「あなたはアルビオンに……、聖下と同行するの?」
「もしそうだと言ったら、どうするのですか?」
「どうもしないわ。ただ、もしそうなら、これからお世話になるから、挨拶ぐらいした方が
いいのかと思っただけよ」
「そんなものは必要ありません。私は命令に従って、聖務をこなすだけですから。それでは、失礼」
1つお辞儀をして、パウラはその場を離れて行く。
それをしばらく眺めたあと、は1つため息をつき、広場を再び歩き始めた。
現実をしっかりと受け止めなくてはならない。
分かっていることとは言え、にはそれを受け止める方法が、分からなかった。
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