夕方、は、“剣の館”の屋上へ向かって歩いていた。
今夜、アベルがマッシリアでの任務から戻って来ることになっていたからだ。
ゆっくりと階段を上がり、屋上へ向かう扉をゆっくりと開ける。
そこから差し込んでくる夕日の光が、の視界を多い、目を細める。
だが、それもすぐに慣れ、彼女はゆっくりと扉を閉じた。
夕日に照らされるかのように佇む影を見て、は一瞬驚いたように目を見開く。
本来なら自分が待ち人になるはずなのが、逆転してしまっていたからだ。
「アベル……?」
風に溶け込むかのような声に、相手は気が着き、視線をに向ける。
そこに見えるのは、再会を喜ぶ笑顔ではなく、何かを心配するような、悲しい表情をしていた。
「さん……」
任務で何かあったのだろうか。また、何かヘマでもしたのだろうか。
いくつかの疑問を頭に並べながら、ゆっくりとアベルの方へ近づいて行った。
「お帰りなさい、アベル。また、何か仕出かしたの? 紅茶とか、今から用意しようとしたから、
もう少し待って……」
言葉は、そこで途切れてしまった。アベルが急に立ち上がり、を強く抱きしめたからだ。
「ア、アベル!? 一体、どうしたの!?」
突然のことに、は何が起こったのか分からず、相手に問い質す。
しかし、アベルは何も答えようとせず、ただ彼女を強く抱きしめているだけだった。
静かに沈黙が続く。
時間の流れを忘れ、お互いに口を開くことなく、
肌に伝わる風を感じているだけだった。
その沈黙を破るように、アベルの言葉が、の鼓膜をそっと打ち付けた。
「ブリジット陛下がお倒れになったと……、ケイトさんから聞きました」
その声はどこか辛そうで、まるで自分のことかのように苦しんでいる。
「さんのことですから、辛いのを我慢して仕事しているんじゃないかと思ったら、足が自然と速くなって……。
お約束よりも早く、ここに来たんです」
事を話したケイトに、は心の底で睨む。
しかしケイトとしては、辛い顔を必死に隠して仕事をしているを見ていられなくて、
報告しに来たアベルに打ち明けたのであろう。
余計なことをしてくれたことに怒りつつも、どこかで自分から切り出さずにすんで、
緊張が少しだけ解れた感じがした。
「陛下の様態は、どうなんですか? 単なる過労、ですよね? すぐに元気になられますよね?」
アベルとて、ブリジットは全くの赤の他人ではなかった。
去年1月1日、に引っ張られ、念願叶って、2人は対面を果たした。
その仲介役をしたが、このことを誰よりも喜び、楽しんでいた。
今年も連れて行きたかったが、そうする前に、彼は近くにあるカフェへと1人入ってしまい、
ひらひらと手を振っているだけだった。
今思えば、あの時に彼女に会っておけばよかったと、悔しさだけが残る。
抱きしめている腕が、自然と強くなる。
ブリジットのことを気遣うように、そしてを安心させるかのように、
強く、そして優しく包み込む。
しかしそれが、を余計に苦しめていることを、当のアベルは気づいていなかった。
「もう……」
ようやく開いた口から、言葉が毀れる。
「もう、月を跨ぐのは……、無理かもしれないって、侍医の方が……」
いつの間にかアベルの背中に回っていた手が、アベルの僧衣を強く握り締めている。
まるで、この事実を受け入れたくないかのようだ。
「1月の時の面影なんて、何も残ってなかった。まだ65歳なのに、80歳のお婆さんみたいな顔をしていて、
苦しそうに、私に言葉を伝えていて……。涙が出ないぐらい、苦しそうで……」
今まで我慢していた、いや、我慢などしていないのだが、
流れることもなかった涙が瞳に溢れ、アベルの僧衣を濡らして行く。
「私がそばにいれば、こんなことなど起きなかった。私がそばにいれば、今でもブリジットは、
いつもと変わらない笑顔を見せていたに違いない。私があの時、彼女の側を離れなかったら、
こんなことにならずに……」
「さん!」
急に大きな声で呼ばれ、は思わず、アベルの顔を見る。
そこに映る彼の姿は、いつものヘナヘナしたものではなく、
真剣で、の目を真っ直ぐに見つめていた。
「さんがそう言うのも分かります。私だって、こんなこと、信じたくない」
鋭く尖った言葉が、の胸を突き指していく。
「でも、だからって、全てを自分のせいにしたら、陛下はきっと悲しまれます。陛下はあなたを責めるつもりも、
恨むつもりもない。それをよく知っているのは、さんでしょう?」
自分を責めたところで、ブリジットはに責任を負わせようとはしない。
時間の流れの中で起こった出来事を、
自分がいなかったからという理由で簡単に片付けられる問題じゃないことぐらい、
にもよく分かっていた。
分かっていることだが、それでも彼女は、自分を責めずにはいられなかった。
「……助けられなかった」
瞳から溢れる涙が、頬をつたリ、ぽたぽたと下に落ちて行く。
「彼女を、護ることが、出来なかった……」
何かがそっと頬に触れ、涙をそっと拭き落とす。
それがアベルの手だと気がついた時には、の唇は、アベルの唇とそっと重なっていた。
何度も離れ、そして何度も触れ合う。
流れる涙を、慰めるかのように、アベルの唇が拭い、
も徐々に、体に力が入らなくなって行く。
「……大丈夫ですよ、さん」
この言葉に、確信などない。
しかし、今のアベルには、これしか言えなかった。
「彼女は決して、悪いことをしたわけではないんです。主がちゃんと、見守ってくれていますよ」
「神なんて、信じてないわ」
「またそんなことを。聖職者なのに、そんなことを言ったら、皆さんに怒られますよ」
「そうだとしても、信じられない。信じられるわけ、ないじゃない……」
神はいつも、残酷な宣告をする。
少なからず、にとっては、いつも神が出す結論は過酷なものだった。
だから神を信じない。それは昔から変わらないことだった。
「主が信じられないのであれば……、……私を信じて、くれますか?」
突然の言葉に、は驚いたように目を見開く。
そんな彼女に、アベルはそっと、自分の手を彼女の頬に触れた。
「私とあなたは、『繋がって』います。あなたの願いは、私の願いでもる。だから、
主の代わりに、私を信じて下さい。私がその願いを、主に伝えますから」
アベルとは、「繋がって」いる。
例え、どんなことがあっても、離れることはない。
強く結ばれたその「糸」だけは、神ですら引き裂くことは出来ない。
それだからこそ言える言葉だった。
「もう、1人で苦しまないで下さい。こんなさん、私はもう、見たくありません」
「アベル……」
再び重なる唇が、自然と深くなる。
そしてどんどん、力が入らなくなる。
そしてそのまま、2人は心を重ねたのだった。
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