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闇の先から聞こえる声に、は思わす目を強くつぶった。
まだ太陽が昇り始めたころのはずだ。
こんな早くに声をかけてくるなんて珍しい。
重い瞼を何とかして持ち上げると、近くにある時計を見つめた。
時間は午前6時を指していているのだが、秒針が一向に進もうとしない。
普通なら電池が切れているのかと心配するところだが、は特に動じることなく、
目の前にいると思われる主に声をかけた。
「……こんな早くに声かけるのやめなさいよ、アベル」
『すみません、さん。どうしても伝えないといけないことがあったものですから。
……何だか、いつも以上に辛そうですね』
「昨夜、プログラム達のメンテナンスにつき合わされたのよ。さすがに長時間篭るのはきついわ」
まだ眠いのだろうか、うつ伏せになって、目を伏せるように枕へ顔をうずめる。
アベルの手がそっとの髪に触れたが、その感触は何1つ感じない。
「……どうせなら、本物の手で撫でて欲しかったのに……」
『おや、今朝は珍しく甘えん坊さんですね』
「悪かったわね、甘えん坊で……」
低血圧な上、それに追い討ちをかけるように襲ってくる後遺症のせいで、いつも以上に不機嫌になってしまっている。
こんな自分を他人に見せたくない。それがたとえ、昔から自分のことをよく知っているアベルだとしても同じだ。
しかし、口から出た言葉は、相手に対する文句ばかりだった。
「だいたい、こんな朝早くに声かけるアベルがいけないのよ。今、まだ午前6時よ? 午前8時までぐっすり
眠れば復活出来ると思ったのに……」
『お休みなのに、起きるの早いじゃないですか』
「ここの主人は、休みなんて関係ないの、知っているでしょ……」
ここスフォルツァ城の主人、カテリーナ・スフォルツァは普段から早起きだ。
その主人のために、久々に護衛役を買って出たは毎朝彼女と同じ時間に起床して、
警備体制を確認したり、メイド達に挨拶をしたりしながらカテリーナの自室に向かい、
一緒に朝食を取りながら、1日のスケジュールの確認や任務などの報告をする。
その後は基本的には自由だが、ほとんどカテリーナの買い物などにつき合ったりしているため、
1人であまりゆっくりしたことがなかった。
「そう言えば……、ミラノに来るの、明日だったかしら?」
『いえ、それがですね、今日中にそちらへ行こうと思いまして』
「今日中に? ……ああ、もしかして、ローマであったお家騒動の件?」
『さすが、さん。もうご存知だったんですね』
「ちょうどメンテナンス中のスクルーが、急に爆音のような声で言うんだもの。嫌でも覚えているわ」
メンテナンス中に声を出すと、バグが入りやすくなってしまうため、
極力声を発しないように音声プログラムを停止させていたのだが、緊急の報告だったのか、
それを無理やり解除させて話したので、騒音のように聞こえてしまったのだ。
耳元に、爆音のような声が鳴り始め、思わず耳をふさぎたくなりそうだ。
『で、さんに、お迎えにきて欲しいんですよ。いろいろ、ローマから持ってきたので、鞄が重くなってしまって……』
「それは構わないけど、こんな朝早くに言うことじゃないでしょ? 昼間とかの方が、もっと機嫌よく答えられたのに……」
『いや、ちょっとですね、さん、いつも寝起き悪いですから、これで機嫌がよくなるかなぁなんて思ってみたりして……』
「あ〜、もう、うるさいわね、この馬鹿神父!! アホ神父!! 能天気神父!!!」
横にあった、使われていない枕を前方のアベルに向かって投げつけたが、
相手の体を通り過ぎて、虚しく壁にぶつかってしまう。
当たらないことは分かっていたが、目の前にいる銀髪の神父が心配そうな顔で見つめているのを見て、
は思わず視線を動かしてしまう。
「もうお願いだから、このまま寝かせて……」
もうこれ以上、こんな姿を見せたくない。
枕に再び顔をうずめ、そのまま眠る振りをする。
「午後に会うまでに、ちゃんと機嫌、治しておくから」
『……分かりました』
アベルはそれだけ答えると、ゆっくり立ち上がり、の髪にそっと唇をあてた。
でも相手にとっては、それも感じていないだろう。
枕に顔をうずめたまま、知らない間に寝息を立て始めている。
こんな時、自分がちゃんとそばにいればもっと安心して休めただろうに。
アベルの頭に、一瞬そう横切った。しかし今の自分はここにいない。
彼女の体を、支えることも出来ない上、何か言ってしまったら、彼女を余計機嫌悪くさせるだけだ。
『……出来るだけ早く、こちらに来ますね』
その言葉を告げた時、止まったと思っていた秒針が再び動き出した。
再び静寂が戻った時、何かを後悔するかのような声がベッドの中から聞こえて来る。
「……馬鹿。どうしてあんな態度、取っちゃったのよ……」
寝息を立てていたはずのの口からこぼれた言葉は、アベルに届くことなく消えていった。
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結局、予定通りに目は覚めたもの、後遺症の頭痛は治まることがなく、ベッドの上から起き上がれないでいた。
思った以上に長引きそうな気がして、知らない間に不安な表情へと変わっていく。
『まだ辛いですか、わが主よ?』
「何か、頭が変に重いの。フェリー、悪いんだけど鎮痛剤打ってくれる? この分だと、
きっとミルクティ何十杯飲んでも治まりそうもないから」
『了解しました。No.035、脳内鎮静剤を投与します』
腕時計式リストバンドの文字盤の裏から、1本の針が出され、手首に差し込まれる。
そこから液状のものが流れ、の体内へ流れていく。
徐々にだが、の表情に見えていた青白さがなくなり、赤みが戻っていくのが分かる。
『完全に戻るまでは時間がかかりますが、薬が効いてくれば大丈夫なはずです』
「ま、あまり無理な行動はしないようにするわ。ありがとう、フェリー」
寝転がっていた体を起こすと、その場で1つ大きく伸びをする。
目の前のカーテンまで行き、おもいっきり左右に開けると、窓から一斉に太陽の光が部屋の中に入っていった。
「んー! 今日もいい天気ねー!!」
再び大きく伸びをして、外に輝く木々を眺める。鎮痛剤が効いてきたのか、
先ほどより身が軽くなったのを感じて胸を撫で下ろした。
『そう言えば、“クルースニク02”が謝っておいて欲しいと、プログラム[ザイン]経由で通信がありました。
何だかすごく、心配しているようでしたが……』
「私もどうしてあんな態度を取ってしまったのかと思うと、彼に謝りたい気持ちで一杯よ。あとで会ったら、
ちゃんと言わなきゃいけないわね。全く、馬鹿なのは私の方ね」
『自分を責めるのはよくありません、わが主よ。……おや』
「ん? どうしたの?」
『ただ今、プログラム[スクラクト]から連絡が入りました。“ダンディライオン”がミラノ空港に到着し、
こちらに向かっているようです』
「レオンが? ……ああ、そっか。今日、ファナちゃんの誕生日だったわね。確か、カテリーナがアレクを通して、
外出許可をもらっていたんだったわ」
先日アベルを通して、レオンの外出許可を出したことを思い出しながら、
はクローゼットの中にある服を取り出した。
薄紫のハイネックのロングジャケットに、同じ色のパンツ、黒の皮靴を身に付け、相棒である2挺の銃を懐に収める。
ロングジャケットの裾には、濃紫の糸で花の刺繍が施されている。
ここに来たばかりの時、彼女は毎日軍服で過ごしていた。
しかしそれでは硬すぎると、カテリーナの父であるジョヴァンニ・スフォルツァが彼女に提供した護衛服がこれらである。
あれからもう10年以上立っているもの、服は染み1つなく、清潔感に溢れているのは一目瞭然である。
鏡の前に立ち、近くにある櫛で髪をとかし始める。
随分と長くなった髪を見て、ふと何かを思ったかのように手を止める。
そして鏡の先に、彼女にしか見えない光景が広がっていく。
光が差し込む部屋に、赤い光が混じる。
中央に立つ人間が何かを拾い上げ、満弁の笑みを浮かべている。
その持ち上げたものは……。
「様、お目覚めでしょうか?」
扉越しからノックされた音で、はすぐに我に返る。
何かを吹っ切らせようとするように頭を左右に振り、櫛を置いて、扉の方へ向かい、ノブを掴んで奥に押した。
「どうしましたか、フィーネさん? 朝食の時間はまだですよね?」
「はい。実は猊下から、これを様に渡すようにと言われまして」
メイド達の長であるフィーネ・シュトレインが持っているのは、1つの小さな箱だった。
箱に書かれている言葉を見た瞬間、は驚いた顔を見せたが、
相手に知られては困ると思い、必死になって堪えた。
「――具合でも悪いのですか?」
「いいえ、別に……。ありがとうございます、フィーネさん」
「朝食は、いつも通りの時間で大丈夫でしょうか? もしご無理でしたら、時間をずらしますが」
「その必要はありません。カテリーナに、私は大丈夫だから心配しないよう伝えて下さい」
「分かりました。失礼いたします」
メイド長が頭を下げて、スタスタとその場を離れると、は堪えていたため息を大きくして、
ゆっくりと扉を閉めた。
確かに前日、メンテナンスにつき合わなくてはいけないことはカテリーナに伝えてあった。
しかし、それによる後遺症のことまでは言っていなかったはずだ。
どうやって事情を飲み込んだのかは定かではないが、たぶんプログラム「スクラクト」の後遺症の話を以前聞いて、
きっと今回も同じ目にあっているだろうと思ったに違いない。
「……全く、変な時に心配性になるんだから、カテリーナは」
ポツリと呟き、手渡された頭痛薬を鏡の前に置くと、再び櫛で髪をとかし、
いつも通り、黒のリボンで上に縛ったのだった。
「ROMAN HOLYDAY」です。
今回、本編にほとんど絡んでいないため、完全オリジナルになっています(爆)。
で、アベルが低血糖、カインが塩分取りすぎ(?)なので、
は低血圧にしてしまいました(爆)。
そしてその犠牲にあったアベル、ご愁傷様です(笑)。
今回、2つの回想シーンが交互に出てきますので、少し混乱するかもしれません。
最初は、皆さんご存知のシーンを少し。
実際に目の前で見たわけではないのですが、としては一生忘れることが出来ないシーンです。
そしてそれが、アベルをまた辛くさせる原因になってしまうのですが、それは後ほど……。
(ブラウザバック推奨)