人間は感情というものを持っているらしい。それは心とも言われるそうだ。
そしてヒトはそれを言葉にする術を持っている。
でも、自分にはそれはとても難しい行為だった。自分のことだったけれど、それがこの体内の何処にあって、どういう形を成しているのかよく理解できていないせいかもしれない。
は目の前一杯に広げられた純白に目を奪われた。
「・・・ ?」
この発声器官はきちんと機能してくれているのだろうか?そう自分で思ってしまうくらい、細い声しか出せなかった。
夜 だった。
辺りを包み込む永久(とこしえ)の闇の中そのヒトは佇んでいた。
完全な円を描く月を見上げるように、そのヒトは背を向けている。
・キース
顔は見えず、 が見つめる先にいるのは最近出会ったばかりの『仲間』で、多くのことは知らないけれど、教授と友達で、アベルの大事なヒトで・・・『フローリスト』と呼ばれているということ。普通の人間とは違うことができて、柔らかな燐光を纏う微笑みを浮かべるヒト・・・そう思っていた。
「 」
もう1度呼べば長身の肩が小さく揺れ、連動するかのようにその背に生えた翼をも揺らした。
「・・・羽・・・生えてるよ」
目の前の出来事を確認するだけのような言葉が思わず漏れる。
その言葉を聞いて がゆっくりと振り向く。その様をただ見つめる の目に捉えられたのは、悲しげな瞳だった。
『羽・・・生えてるよ』
なんてことは無い言葉だったじゃないか と は思う。
が、その言葉に何故傷ついているのだろうか?とも思っている。
「 さん まだ気にしているんですか?」
「・・・」
ひょいっと の顔を覗き込むのは、同僚であるアベル。 から返事が無いことに少々困ったような表情を浮かべつつ、彼はコトンと の目の前に紅茶に満たされたカップを置く。
ゆらり と温かそうな白い湯気が上がるのを見詰める だが、何処と無くその視線は虚ろだ。
「拒絶されたんじゃなかったんでしょう?」
「・・・そうだけど・・・さ」
・ノーヴァラン
人間と機械の中間に位置する存在だと聞いていた。
だからトレスのような子を想像していたけれど、実際はただ感情の表し方を知らない見かけ以上に幼い子だった。思わず頭を撫でれば、一瞬不思議そうな表情を浮かべながらもすぐさま嬉しそうな曇りの無い笑みを返す、そんな子。
その にあの姿を見られた。
何を言われたわけでもない、酷い言葉なんぞ飽きるほど聞いてきたではないか・・・。だというのに、彼女にあの姿を見せたことを後悔している自分がいた。
「じゃあ、何に傷ついてるんですか? さん」
「・・・傷ついてなんかない」
「また強がりを・・・」
ふう とため息をついたのはアベルだった。
まったくこのヒトは昔から自分の感情に素直じゃない・・・。認めてしまえば楽なのだが、それと同時に傷つくこともある。それを恐れて、彼女は自身の感情から目を逸らすのだろうか。
何とか会話を続けようとするアベルが更に口を開こうとしたとき、それは転がり込むように勢いよく飛び込んできた。
「――― っ!!」
「えっ!?あ、はぃっ!!え?」
突然体当たりよろしく、扉を駆けて来た勢いのまま押し開け、開くと同時に目的の人物を探しているのか大声でその名を呼ぶ。
呼ばれたほうはといえば、あまりの予想外の出来事と展開に思わず反射的に返事だけはしたもののついていく事は出来ず、目を白黒するばかり。
の困惑を余所に、 は探し回っていた人物を見つけ、ぱっと彼女の手を握り行動の勢いのままに問いかける。
「今、時間、ある?」
「は・・・ぇ、ええ」
「じゃぁ、来て欲しい」
余程急いでいたのか赤い顔をして、呼吸もまともに整わぬまま話しているのだろう、 は片言のように用件だけを伝える。ソレを聞いた はといえば、どう考えても予定は空いているので頷くのだが、そのまま手を引っ張ってどこかに連れて行こうとされるとは思っていなかった。
とりあえずついて行かねばならないとは思うものの、引きずる気まずさは拭えず、思わず隣で成り行きを見守るに徹するアベルを見やる。
彼は彼で、そう見られても・・・と言わんばかりに肩を竦めてみせる。
・・・しょうがないか・・・。
「分かった、行くよ。 」
名前を呼んでもらえたのが嬉しかった。
頭を撫でてくれた手が温かで、貴女が向けてくれる表情が好きだった。
だって貴女は―――
「アレ」
この広い敷地内の何処を歩いているのか分からなくなってしまうほどの角を曲がり、ただ手を引かれ先導されるまま歩き続けたさきに の目的地はあったようだ。
の指差す先にあるのは、 でさえ知ってはいても滅多に来ることなどないその場所。
小さな古い礼拝堂。
よく見つけたな・・・とぼんやり思う を余所に、 はぐいぐいと手を引いて中に入ろうとする。
「 ?・・・中には何も無いのよ。どうしたの」
「見せたいものがある!」
そう言われればついて行くしかなかろう。小さな疑問を抱えたまま に続いて朽ちかけた堂の扉を潜る。
―――さすが使われていない上に、手入れもされていないだけある。その礼拝堂は嘗ての鮮やかさを忘れたようにひっそりと白黒の陰影を付け、荒れた天井から仄かな光の筋が差し込む。
唯一ここが嘗ては神の住処だったと証明するのは、曇ったステンドグラスと無数の石造彫刻・・・くらいだろうか。
「 」
半ばその荒れ家同然の有様に、呆然としていた の名が呼ばれる。が、驚いて声の主を振り向けば、どうやら名を呼んだのではないということに気が付いた。
の一回り小さな手がある方向を指し示す。それを追い、目にしたものに更に困惑する。
の困惑に気付いたのか、やっと が を振り向き、笑みを形作る。
「あれ 」
そこに居たのは
『天使』
「・・・何で・・・」
「だって顔似てるよ。それに、 も羽あったもん」
教会や礼拝堂を飾る天使達は総体的に柔らかな慈愛の笑みを浮かべている。そして背には大きな白い翼があるものだ。その姿をあの夜の に重ね、 は 自身と石像を交互に指差し示す。
「怖く・・・なかったの?」
「?」
視線を落とす に は困ったように首を傾げる。
だが、 には分かっていた。『怖い』なら天使と比喩したりしないだろう。そうならば、自分をあれほど探し回ることもするはずがない。
ここにきてようやく、 がここまでの間ずっと手を握り締めていたということに気が付いた。そう・・・恐れていれば、触れることなど出来ようはずもないのだと思い至る。
「 は天使が怖いの?羽が生えると痛いから?」
が立ち位置を変え、腕を伸ばす。それに少し が身じろぎすると一瞬だけ手の動きを止めたものの、拒絶されたのではないと知るとそのまま の背―ちょうど翼があった部分―に軽く手を当てた。怪我の有無の確認を始めたらしい。
「教授が教えてくれたんだけど、天使って最初は羽無かったんだって。でも、長い信仰の歴史の中で世界中に布教する時に各地の伝説や神話と混ざって、羽が描かれるようになったんだって。
でね、コレは本で読んだんだけど・・・。大昔の人間には羽が生えてて、だから肩甲骨(この骨)はその名残なんだって」
確認が済んだらしく、視線だけを向ける にふにゃりと笑ってみせる。
「天使には羽が無かったし、人間には羽があったんだよ?だからこの前の は天使になったんだと思った。
・・・ 凄く綺麗だったよ。羽があって、月明かりで天使の輪を被ってるみたいに見えたんだ」
ちょうど2人の目の前に聳える天使像のように。
ふわり と の背に温かな腕が回される。
突然のことに驚き硬直する だが、優しく触れる の温もりにゆるゆると力を抜く。一瞬見えた彼女の表情が泣きそうにも見えて、困ってしまう。
「―――どうしたの?痛いの?」
「いいえ、違うわ。嬉しかったのよ、とっても。だから、こうしたくなったの」
「ふぅん」
もっともっと伝えたかった。貴女がどんなに綺麗だったか、どんなに優しい笑みを向けてくれているのか、どんなに温かでまぶしいか・・・そしてどれほど『すき』か。言葉を知っているのに、どうやって使えばいいのかが解らない。自分は本当に感情を表現することが下手で、胸の辺りがもやもやとしてしまう。
けれど、今貴女が嬉しいと言ってくれたその言葉が温もりを生み出す。トクトクと腕を通して伝わる貴女の鼓動が、自分に流れ込むように温か。
抱きしめられる の目の前で唯一名残のように残されたステンドグラスから零れる光りが、あらゆる色を纏って の背に届く。
―――ほら・・・やっぱり貴女は天使だ
鮮やかな色彩を纏った光りが、 の背から放たれるように伸びる。その姿は正に・・・翼を広げた天使の如く映っていた。
大昔の人間は天使だったのかもしれない。
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